カナン 〜約束の地〜 フォア・ナイン/エクセレンツ

1997年4月18日発売(FD版。CD-ROM版は4月25日発売)
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 私がゲームに求める第一の要素は、何よりも「楽しめる」ことです。お金を出したぶんだけ楽しめればよいわけで、いっぱい楽しめるのであれば、プレイヤーにとってそのゲームの内部評価は高くなるでしょう。しかしながら、「ゲームをプレイするという趣味を持っていて本当に良かった」と思えるほどのゲームは、ほんの一握りに過ぎません。私にとって、最初にプレイしたXゲームである『』(Leaf)は、まさにそんなゲームでした。

 その後、『AmbivalenZ』(アリスソフト)をはじめ、ストーリーで人を魅了するゲームにいくつか出会うことはあったものの、『痕』に匹敵するインパクトはありませんでした。あれは第一印象の強烈さに起因するに過ぎなかったのか、と思っていたところに、プレイして全身を駆け抜けるような衝撃を受けたのが、この『カナン 〜約束の地〜』。フォア・ナインからリリースされた、『GAOGAO!』シリーズの完結編です。これまでにもパッケージを目にしてはいたものの、いかんせん地味なゲームである上、Windows移植も行われていないので、ゲームに触れたことはなかったのですが、これほどの作品が埋もれているのは実に惜しい、いや、埋もれさせてはいけない、と思わせるゲームです。

 逆にいえば、「売り方が下手」だったのでは、という気がしてなりません。パッケージもどうもパッとしない印象ですし。

※以下のレビューは、『GAOGAO!』シリーズ第3作の『ワイルドフォース』をプレイ済みの状態で書いています。主要キャラクターが重複しているため、『カナン』プレイ前には、『ワイルドフォース』をプレイされることを非常に強くお勧めします。また、プレイの際には、最初に「わくわくフォア・ナイン」内の「プロローグ」を一見されることをお勧めします。

シナリオ

 時は遠い未来、すでに人間の文明はその輝きを失い、地上では「変異体」と呼ばれる亜人間が、その旺盛な生命力を背景に新しい文明を築いていた。すでに自然から見放され、ひっそりと地下シェルターで息を潜めつつ暮らす人間の存在は、変異体の中ではすでに伝説の存在と化していた。

 人間の少年・カイト(変更可能)は、自分が暮らす地下シェルターで発生した原因不明の病気によって家族を次々と失い、1人だけ生き残ることとなる。彼は地上に出て、世界のいずこかにあるという理想郷・「カナン」を求め、旅に出る。変異体の凶暴さを常々説かれ続けてきた彼の中には、変異体は忌むべき対象という知識が刷り込まれていた。

 一方、変異体の冒険者・ウルフィ(変更可能)は、地下都市で「人間」なるものの存在を偶然知り、自分たちの起源であり、なおかつ自分たちを迫害した人間をこの目で確かめようとする。恋人のラビィ、女傑イリア、お気楽なニースなどの頼れる仲間たちとともに、旺盛な好奇心を満足すべく、人間探しの旅を始める。

 人間、そして変異体。2つの種族の邂逅は、どのようなドラマを用意しているのだろうか。

 

 これまでの3作品と同様に、三峰奈緒さんがシナリオを担当されています。

 「続編」という性格を前面に出しているゲームはあまたありますし、そういったゲームに対してどのように評価をくだすべきかという判断基準は、私もまだ明確とするには至っていません。しかし、このゲームでは、前作までの知識の有無が「楽しみ方」を左右する、その点をあらかじめ承知の上でも、やはり「名作」である、と判断できるだけの要素を含んでいます。個別のモチーフに関しては稿を改するとして、とりあえずシナリオの構造、キャラクター、および最重要のテーマに関してのみ触れさせていただきます。

 

 まず、シナリオの構造として特筆すべきは、主人公を2人設定していることが挙げられます。一方は、「世間」(あるいは「外界」)に関する知識を書物の中でしか得たことのない少年であり、頼るすべをもたない。もう一方は、数多くの修羅場をくぐり抜け、また頼りになる相棒に恵まれている。不均衡なことこの上ない組み合わせですが、この2人の相異なる「視点」から、物語が叙述されます。

 この「視点の切り替え」は、価値観を転倒させる役割として見た場合、さほど意味を持っていません。例えば、「ニンゲン」カイトは、途中で変異体に襲われるという災難に遭いますが、その変異体は、少なくともプレイヤーサイドでは「責を負わせるべき"悪"の主体ではない」とわかっています。要するに、見えていないものが見える、というよりは、「見えない」ゆえに滑稽なすれ違いが発生する、という次元に留まっています。もちろん、その「すれ違い」という効果を過小評価するのは、ストーリーテリングの方法論に対して偏った評価をくだすことと大差ありません。「それによって初めて見える何かがある」ということを誇大に表示し、その幻想で魅惑させるのは、マルチサイト信奉が行き着いた果ての傲慢な行動にほかならないでしょう。

 しかし、「演出」として見ると、1つの「物語」が、違う角度で把握されることによって、また異なるフィルターを通すことによって、変化していくのは確かです。その結果、「次がどうなっているのか」と、見る者を知らず知らずのうちにその世界へと引き込んでいくことになります。もちろん、その背景には、「流れ」を停止させないようなテキストがあることが前提となっているわけですが、『カナン』という作品においては、そのレベルの問いは、むしろ失礼に当たりましょう。

 

 展開そのものも、非常によく考えられています。伏線を張り、後にネタを明らかにする、というのは、どんなゲームのシナリオでも共通しているわけですが、伏線が張られた時点で、その結末がどうなるか見当がつくケースは珍しくありませんし、そうでない場合でも「これが何かの伏線だな」という程度のことは、すぐにわかります。この『カナン』でも、やはりそういったケースが多いのですが、大小まじえて出てくるクライマックスシーン付近で使われる伏線の場合、まずそれに気付くことがありませんでした。これは、3部作のうち、第1作目・2作目をプレイしていなかったことを差し引いて考えるべきかもしれませんが、例えば、「カプセルの中のラビィ」あるいは「ビィの正体」などについては、話の展開を「とにかく知りたい」という気持ちが先走った結果、一歩下がれば(例えば、活字等で明記されたものを再読すれば)容易にわかる伏線も、あっさりと見過ごしてしまい、後に「やられた!」と思ったものです。

 

 キャラクターに焦点を当てた場合、ウルフィの「好奇心旺盛で楽観的だが情けに篤く常に前向き」、カイトの「生真面目で純情だが気弱で臆病」というキャラクターが、まことに対照的な形で設定されています。中盤までは、この両者の視点から語られる「物語」が、かなり拮抗した展開を見せるものの、終盤になると、事実上ウルフィの独壇場となります。実際には、クライマックスとなるシーンを「把握・処理」しきれるのは、それまでに得ていた情報量・人脈が圧倒的に多いウルフィの方であって、無理にカイトの存在感を増そうとしたところで、ストーリー上の不整合が増すばかりでしょうから、ウルフィを主人公の一方として用意した時点で、こうなるのは必然といってよかった、と思います。ただ、ヒロインであるはずのアンジェラが、タダの「キャラクターその1」になってしまっていたのは残念。クライマックスでは、イリアやビィよりも存在感がない、というのは、さすがに可哀想に思えます。「天使」というイメージとオーバーラップさせようとしたのはわかりますが、あまりにも「いい子」過ぎたという印象があります。

 

 続いて、エンディングについて。

 前作の終え方から見ても、救いようのないエンディングではなかろう、ということは予想がついていましたが、それでも、あのエンディングにはやられました。勧善懲悪、あるいは単純な五族共和(異なるグループの共存共栄)の実現というお伽話で締めくくることなく、ゲームに登場したキャラクターたち一人一人が、それぞれの中で「関係」を再認識し、そして新しい世界認識を作り、その総体として「エンディングの世界」が結実する、という形になっています。それを「用意されたエンディング」と評することも可能ですが、観念的な予定調和という方法を一切排し、壮大な「再構築」を、愚直なまでに実現させたエンディングは、昨今の「感動をもたらすエンディング」につきものの浮薄さとは無縁のもののようにさえ感じます。

 そこでは、ひとの善悪をゼロサム的に適用して分類するといったデジタル的発想は、注意深く取り除かれています。ひとが心に何かを抱えているというのは、善人だろうが悪人だろうが同じこと。悪人に天誅がくだるといったお気楽さも、改心すればみな善人といったお気楽さもありません。抱えるものから逃げずに生きる、それが可能なはずであること。このゲームの中で動いているキャラクターたちは、そういった作用を示してくれているように思えます。

 

 さらに、シナリオ全体を貫くテーマについて見た場合、そこにあるのは「異なる種族が反目しあう構造、そしてそれらが共存・融和していく過程」があり、なおかつ、「各人個別で善悪・是非を問うことの限界」をも示している、といえます。

 前者のテーマをわかりやすくいえば、要するに、相互に接触がないグループが相互に対立したり、あるいは根幹では同一のグループが何らかの要因で(一部が残りを排除する形で)グループとして分裂したりというケースにおいて、「ひと」としていかなる対応をするのが「理想的な一形態」足りうるか、ということだと感じます。視点によっては様々な回答が得られる(あるいは、得られない)でしょうが、国際政治や比較文化論などの観点から関心をもつ人はもちろんこと、そうでなくとも、冷戦崩壊後の混沌たる世界秩序の中、性質を異とするグループが共存していくことが現実問題としていかに難しいか、は判るはずです。しかし、これを解決しなければ、不幸が再生産されるばかりである、これも自明でしょう。この難問に対し、一義的かつ明快な回答を、いうならば「神の啓示」のごとく提出したところで、それは「綺麗事」という注釈付きで頭の奥底に追いやられることとなります。しかし、事態を解決するには、当事者の主体的な活動がなによりも不可欠であり、天下り的・形而上的に「理性」「倫理」「ヒューマニズム」といった「尺度」を適用し、それを強制することは、長期的には大した役には立たない(むしろ多大な害悪をもたらす)ということは、皮肉にも20世紀に流された血の量が無言で証明しているといえましょう。そういう「過酷なる現実」を見た場合でも、そこで絶望しては何も起こらないし、何も進まない。そんな「重苦しさ」を抱えているのが、特に冷戦崩壊以降の世界であると私は思っているのですが、そういった「重苦しさ」を、「ケセラセラ」と吹き飛ばしながら、あくまでも「目に見える、そして手に届く範囲で」事態を前進させていくという、キャラクターたちの行動。まさに、ともすれば明日を見失いがちな現代地球人(そう、「資本主義」という怪物にすべてを託し、その中で自己存在を明確にすることによってのみ自己完結を図りがちな「現代人」!)に対し、チクッと刺すような「何か」を見せているように思います。

 後者のテーマでいえば、善悪を個々人のレベルに還元して終始するといった醜態から見事に逃れている、という潔さがあります。いわゆる「不祥事」と呼ばれるような事件が表面化した場合、責任を明確にすべき、と、声高に叫ぶ人は多いですし、それはそれで「正論」なのですが、個人がどのように「関係」を形成し、その「関係」の集積がいかにして「共同体(あるいは「集団」)」に昇華したか、そして、人がアイデンティファイ可能な「グループ」とは、どのような集団意識に立脚しているのか、そういった点に対してはことごとく沈黙するケースが多いのは、特に「集団」への帰属意識の強い日本人的心性においては具体例を挙げる必要さえないことでしょう。「責任」を問われるべき「個別」が、どのように「集団」を形成したか、そこから目を背けては、底の浅い「個人主義」崇拝へと直結するか、あるいは「個別」の暴走を抑制するという側面のみを見て「集団主義(これが、中心核をもった"コントロールされる客体"になれば「全体主義」へと発展する)」へと走るか、そのいずれかしか(少なくとも論理的には)あり得ません。いずれにせよ、未来に対する希望を持ちうる形で解決を図ろうとすれば、個別の人物がどのような判断をしているか、そこから絶対に目を離してはいけないはずです。しかし、「集団」を客体化・抽象化した上で、それがあたかも有機体であるかのように扱うという「安易」な方法で満足しがちなのが、近代に蔓延している「物語」構造の典型でしょう。このゲームにおけるウルフィたちの行動は、こういった「物語」構造を、破壊はしないまでも、その呪縛から巧妙に逃れ、「個」の「集団」への埋没というワナから、見事にすり抜けている、といえます。さらに、その根底に流れているのは、社会批判をバックボーンとしたものでは決してなく、個々人の「本能的な判断」です。いうなれば「作者という"神"の論理」が背景にありますが、その論理が与える説得力の大きさたるや、Xゲームというニッチなジャンルのメディアにおいては、前代未聞でありましょう。

ゲームデザイン

 前作同様、完全に一本道というアドベンチャーゲームですが、大きく異なるのは、主人公を2人設定し、中盤まではそれぞれの視点が入れ替わりながら話が進んでいくところです。もっとも、A→B→A→B→A→B…と規則正しく変わるわけではなく、A→B→B→A→B→A→A…など、変わり方はかなり不規則です。シナリオの分岐は皆無で、Hシーンに突入する・しないを選択できるという程度です。

 基本的に、コマンド総当たり方式になっていますが、前作とは異なり、場所移動での総当たりはほとんど影を潜め、会話場面での総当たりが中心となっていますが、会話が非常に楽しいのは前作同様。

 Hシーンが多すぎるのも前作ゆずりで、時間的に「そろそろくるかな」と思ったら、やっぱり始まる、という感じですが、大半のシーンは回避可能となっているので、うっとうしければパスしてどんどん進めるのがいいですね。実際、私は、ラビィと、ラストのアレ以外、すべてパスしましたから。是非の議論は分かれるでしょうけれど、シナリオの魅力がこれだけのものである以上、さして「見たい」という気がなければ、さっさとすっ飛ばせば良いのではないでしょうか。無理にHシーンをいれるのはどうか、という意見もあるでしょうが、見たい人もいるでしょうし、「変異体のコミュニケーションとはこーゆーものだ」という受け止め方も可能でしょうし(ほんまかいな)。

操作性など

 ゲームを起動すると、「最初から始める/本編から始める/途中から始める/わくわくフォア・ナイン/音源の変更/ゲームを終了する」が表示されます。「わくわくフォア・ナイン」を選択すると、「ご挨拶/マニュアル補足/回想モード/CGモード/名前変更/サウンドモード/プロローグ」が出ます。

 マウス、またはキーボードで選択肢を選びます。これ以外の操作は、基本的に必要ありません。ただ、反転表示部がやや見にくく、意図しないコマンド選択をしてしまうことがときどきありました。

 メッセージスキップはありませんが、これまた前作同様、会話が非常に楽しいので、私は欲しいとは思いませんでした。速度表示は基本的に(他ゲームでの)高速表示のみで、速度調整はありません。

 選択肢が出た箇所でのみセーブ&ロードが7箇所まで可能ですが、難易度はないに等しいので、各章ごとにセーブしておくと、名シーン再生に便利でしょう(「回想シーン」はHシーンのみ)。ただし、プレイ時の実日時は表示されるものの、第何話かはわからず、コメント記録機能もないのは残念(どうして前作より後退する?)

 「わくわく〜」から、2人の主人公の名前はいずれも変更可能です。

 また、CGモード・Hシーン鑑賞モード(「回想モード」)・サウンドモードがあります。CGモードは、相も変わらずHシーン限定なのが残念。サウンドモードでは、各曲名つきで再生されます。

サウンド

 「ANEX86」では、「ステレオFM音源」での再生でした。「オープニング」のノリの良さ、そして「約束」の雰囲気の良さが気に入りました。ただ、前作『ワイルドフォース』の方が、より曲の効果は大きかったように思えます。

※その後のバージョンアップのせいか、はたまた私の操作方法の未熟さの成果は不明ですが、ANEX86でもMIDI再生は可能であることを確認いたしました。(2001/5/4)

グラフィック

 「輪月伽吉巳」「きゃろらいんようこ」両氏がメイン原画担当。きゃろらいんようこさんの影響か、前作に比べて目がかなりオーソドックスな感じになっています。前作とは異なり、立ちCGもかなり表示されるようになっています。フェイスウィンドウ内で変わる表情変化は前作同様ですが、グラフィックとして前作よりも進歩した反面、演出効果としての表情変化のパワーはやや落ちているという気もします。個人的には、ウォーレン博士の言動にゲンナリしている某キャラが一番印象的です(^^;) 背景原画は、前作よりもずいぶんきれいです(当たり前か…)が、前作のものをそのまま使い回している画面もあり、そういうシーンになるとグラフィックのクオリティがガクンと落ちますが、これはご愛敬といえる範囲内か。また、画面の右側には、同行者のミニCGが表示されます。

お気に入り

 いっぱいいて絞りきれない、というのは、前作同様です。しいていえば、ウォーレン博士に振り回され、ウルフィには皮肉を放ちながらも好意的で、なおかつイリアにとって特殊な存在でもあった、あのキャラ、ということになりそうです。

 2番手に位置するのが、前作に引き続き、レオナ&ドーラ姉妹かな。

関連リンク先

 そう極端に古いゲームではないのですが、やはり『GAOGAO!』シリーズをやっていないと魅力もかなり減殺されるということなのか、はたまた本当に全然売れなかったかのか、それはわかりませんが(^^;)、この作品を正面から扱っているページはさほど多くありません。

 数少ないところとして、成瀬せりあさん(閉鎖)、SHEOさんのサイトをあげておきます。

総評

 「感動」という言葉をもって語られるゲーム感想の信頼性(客観性、といってもよい)に対し、私は基本的にウェイトを置かないように意識していますし、したがって、自分のゲーム評価でもこういった言辞は極力避けるようにしていますが、このゲームをプレイした直後には、素直に「感動した」という陳腐な表現しか出ませんでした。

 シナリオは、大きいテーマを矮小化して無理に結論へつなげたものではなく、地に足のついたものとなっています。またそこには、陳腐で空虚な言説に身を委ねるシニシズムとも無縁な、未来志向の世界が広がっています。

 

 前作『ワイルドフォース』をプレイしていないと、このゲームの魅力を十全に味わうことは不可能でしょうし、そういった「単一ゲームとしての不完全性」を追及することも可能ですが、かかる非建設的な批判よりも、「創造的な続編」として、「名作」に値する作品がリリースされていること自体、私は大いに賞賛されて然るべきと感じます。前作をプレイしていれば、という条件付きとはいえ、歴史的な名作という評価に値すると確信します。

 凡百のゲーム群の中に、記録という名の墓標のみを残して去っていくには、余りにも惜しい作品です。願わくは、本作がより人口に膾炙し、その命運の長からんことを…。

個人評価 ★★★★★ ★★★★★
2000年2月21日
(2月24日、「サウンド」欄を修正)
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