TALK to TALK Clear

2002年2月1日発売
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 『TALK to TALK』を主人公サイドから見た場合、最重要の主題に「感情の理解」というものがあります。これに成功したハッピーエンドとバッドエンドとが対照的に扱われているので、以下、各シナリオごとに、ハッピーエンドとバッドエンドとの比較対照を試みつつ、いろいろと探ってみました。

 なお、以下の文章は、【Rascal】掲示板の中で表明した私の見解がベースとなっており、またBGMmasterさんのご意見の影響をかなり受けています。また、同氏とやり取りしたメールの内容も盛り込んでいます。同氏のテキストも一部引用している個所があります。

悲劇の空虚:樹里の場合

 お茶目で元気な樹里先輩ですが、モデルの件をのぞけば、ぜひとも側にいてほしくなるようなキャラクターになっています。シナリオの作りそれ自体とは別に、まずこの独特のキャラクターの作りはなかなか良いですね。こういうボケキャラがいてもおかしくはないんですが、主人公がそれに輪を掛けてボケ返すのがなかなか良い。

 展開自体がややご都合主義的であり、どうして仲良くなったのか、そしてどうして惹かれ合っていったのかの過程がずいぶんと曖昧です。しかし、それでも主人公は「この人といっしょにいると心地よい」という気持ちが出てきたわけですし、その結果として「感情というものを理解できるようになった」という結論に至ることは問題ないでしょう。少なくともハッピーエンドを見る限り、キャラクターの魅力をうまく使った、いいシナリオになっています。もっとも、後述する色盲の件については、かなり強い違和感を憶えますが。

 

 しかし、樹里バッドエンドは、おそらくこのゲームの中でも特筆すべき後味の悪さを残しています。

 樹里バッドエンドであっても、その前に主人公とヒロインとは両想いの関係になります。その流れは、ハッピーエンドのそれといささかも変わることはありません。すなわち、主人公の視点で見れば、「恋愛関係」に至るまでは成功しながら、その先の「持続」という点で成功しなかったということになります。そしてこの「持続」は、主人公が主体的に関与することで解決できる問題ではなく、主人公の抱えている「宿命」によって限界をもっていた点が、悲劇に直結したといえます。

 バッドとハッピーとの差異は、樹里が主人公に対してどの程度「弱さ」をさらけ出したかという点で論じることは可能ですが、バッドエンドルートであっても、樹里は「別れる」ことをどの程度認識していたのか、はなはだ疑問です。もちろん、彼女が抱えていた「色盲」という問題を最後まで告白していない点については、ハッピーエンドであっても同様(結ばれてもなお樹里は何も言っていません)なので、差を指摘することはできません。後述の一瑠ほどひどくはないにせよ、主人公への依存度の大小の、ほんの少しの違いが生んだ結果に過ぎないと見てよいでしょう。

 ここで、主人公なり樹里なりを批判することは、誰にもできません。樹里としては、これから先も遠距離恋愛を貫こうとしていたと考えるのが自然でしょうし、そこで流した彼女の涙は、主人公のそれに比べてはるかに軽いものであるとしても、その「重さの相違」は、「想いの相違」と異なるだけに、ズッシリとした力を持っているのは確かです。主人公が「期限付きの存在」であったがゆえの恋の終わりという悲劇は、一瑠ハッピーエンドといささかも変わるところがありません。要するに「いましばらくの時間があれば、展開は変わっていたに違いない」というものであり、主人公に責を帰するのは酷だと思われるわけです。

 

 そして、これが樹里シナリオ最大の問題ですが、このバッドエンドは、どうして「バッドエンド」なのか、という根本問題に突き当たります。

 主人公は、樹里と別れた後、気持ちの整理がつかないまま「システム」へメールを送り(これは重要。「システム」は主人公の「気持ち」のブレを把握した可能性があります)、荻谷を道連れにして嘆き悲しんでいます。ここでの荻谷の働きは実に効いているため、一見悲劇性が緩和されているように見えますが、その一方で主人公の「人間くささ」を的確に描いてしまっています。「相手の言動をストレートに解釈するのではなく、その背景にある思考までも読み取れるようになっています」(BGMmasterさん)が、この段階に達しているのは、ほかには素直ハッピーエンドだけです。

 すなわち、「主人公の特殊性に起因して恋愛に破れた」一方で、「本来の目的」である「感情の理解」については、これ以上ないほど明確な形で「成功」しているといえるのです。もちろん、失恋を契機に自我が崩壊したとなれば話は別でしょうが、むしろ主人公は荻谷に対して的確に感謝の意を述べる程度の理性を保っています。

 「「感情」とは何か」について、荻谷は「失恋は男を成長させるんだな」とか「お前にも冗談が言えるようになったんだな」と言っています。こういうシーンで「成長」そして「人間らしさ」を強調するセリフを配している以上、シナリオライター氏は「主人公は感情を把握している」と表明していると解釈できます。この後にバッドエンドにつながるのを見たときには、「裏切られた」と思っても、べつだん不自然ではないでしょう。

 「感情の理解」というテーマに関する限り、むしろバッドエンドの方がより成功しているとさえ考えられることになってしまいますが、これをそのまま受け止めれば、「恋愛」と「実験」とが二律背反なものとなってしまうことになります。もちろん、恋愛が感情と切り離せないものであることは確かであれ、その逆は成り立ちません(当たり前です)から一理あるといえばそれまでですが、基本的に「恋愛を通じた感情の理解」というスタイルがほかのすべてのシナリオに通底しているだけに、ここだけに「恋愛に破れた(それも感情把握の失敗以外を主要因として)」「感情の理解」を持ち出すのはかなりの無理が残ります。

 これは、「恋愛→H→ハッピーエンド」というステレオタイプを無批判に導入した結果、別に掲げていたテーマと正面から対立してしまった、ともいえるでしょう。作り手がこのステレオタイプにはまったのは、先入観のなせるわざか、はたまたプレイヤーの欲求を型どおりのものと考えていたせいか、それはわかりませんが、「ステレオタイプに飽き足らないプレイヤー」にとっては、物足りなさを憶えるのみならず、強烈な違和感を植え付けさせる結果になったことは、作り手は心しておくべきでしょう。

 

 救いといえば救いなのが、樹里ルートのみ、エンディングの後、記憶が全消去されない可能性もあることが示唆されているという点でしょうか。しかしそれなら、その続きを残しておくことが絶対に必要でしょう。重ねて言いますが、これでは一瑠ハッピーエンドとのアンバランスさが気にかかってしまいます。

 また、「このEDから還元すると、記憶と感情は相互にリンクしていることになるんですけど・・・その辺何も描かれていませんね」(BGMmasterさん)というご指摘を、そのまま引いておきます。

 

 さらに、主人公という存在が「遺伝子操作の結果生まれた」という設定であり、そして「人工的な主人公」と「生身のヒロイン」という関係を用意しておきながら、そのヒロインの方に先天的な障害がある、ということの「運命の皮肉」に対する配慮がゼロに等しかったのは、どうにも納得できないものがあります。

悲劇の錯綜:一瑠の場合

 「恋愛」での挫折をきっかけとした人間不信のために人間関係を結ぶことを拒否していた一瑠の恋物語。一瑠シナリオは、そうとらえていいでしょう。主人公が一瑠にちょっかいをかけていくものの、主人公サイドは「自分の判断ではどうにも納得いかないものを解消する」という姿勢が終盤近くまで続いている一方、ストーリーの流れを動かしたのは一瑠であるのは明白です。頑として動かなかった彼女が委員会に出てくれたり、手助けをしてくれたり、「二人だけの打ち上げ」に付き合ったりといった「段階的な態度の軟化」は、主人公のプッシュに彼女が負けたというのではなく、むしろ主人公の変わらない自然体の態度に気を許していったと見る方が良さそうです。言葉を換えれば、主人公はずっと同じ姿勢を取っていたに過ぎず、彼女が変わっていったわけです。

 もっとも、主人公の一瑠に対する会話の内容にはあまり整合性がなく、むしろ主人公の方が感情的な態度を取ったりうろたえたりすることもあります。また冒頭で「ディベートの技術うんぬん」と言っていながら、一瑠とのやり取りでは主人公は完全に負けているシーンが多くなっています。それを考えれば、いわば「透徹した理性の亡者」とでもいうべき主人公の姿をそのまま投影するべきではないのかもしれませんが、これは「一瑠というイレギュラー極まりない行動を取る人間との接触」によってエラーが発生したと説明する方が良いでしょう。一瑠に対してのみ行動パターンが乱れる理由はどうやっても説明不可能ですから(みさきに対してなら説明可能でしょうけれど)。

 主人公の過去の記憶というものもチラリと出てはきますが、これは一瑠シナリオでの主人公の行動を説明できる要素にはなっていません。この当たり、伏線に使おうとしながら、結局うまくまとまらなかったのでは、といううがった見方も可能のような気がします。

 

 ストーリーのターニングポイントは、やはり主人公の告白と、その5日後の一瑠の誘いでしょう。

 屋上で「ここであたしを抱ける?」と一瑠が言ったときの心理を端的に説明することは困難でしょう。しかし、少なくとも彼女の心理の中には、「主人公を試す」といったものはなかったと考えられます。いや、彼女自身が自分を納得させるために「このお節介なヤツの本心を見るために私はこう言ってるのよ」と思いこもうとしていたかも知れませんが、それはあくまでも表面的な要素であって、実際には彼女は「自分を支えてくれる人を求めた」あるいは「自分が必要とされる関係を求めた」など、「自分」を取り巻く人間関係を変えてくれる人としての主人公を求めたのが、決定的と考えるの妥当です。

 その後の一瑠の変化については、多くを語る必要はまるでないでしょう。朝の通学路で主人公を待っていたり、はたまた食べ物の好みを聞いて弁当を作ったりと、主人公に対して一途な気持ちを速やかに行動に移してくれます。もともと素直な言葉を出せないキャラとされていることもあって、つっけんどんなのは相変わらずとはいえ、もともと彼女自身が他人からまったく受けいられていなかったこともあって、主人公に対して遠慮するシーンもあります。

 かくして、このシナリオでは、ヒロインの心理を、決して多くはないシーンを通じて実に的確に描写しているといえましょう。

 

 その一方で、主人公の動きは、決して能動的なものとはいえません。一瑠が主人公に心も体もすっかり許すようになった段階になってもなお、主人公の一瑠に対する気持ちは、放っておけないという段階にとどまっています。

 もちろんその背景には、冴子のアドバイス「上手に嘘をつく」という言葉が、皮肉にも効いているという点も指摘できるでしょう(この部分については、どうにもまとまった説明ができないので、ここではひとまず措きます。蛇足ながら、「他人事に対して第三者的立場からあれこれ言う」点では、冴子はいいキャラになっていますね)。しかし結局のところは、やはり一瑠がいかにして(なぜ、ではない)主人公に心を開いていったかを理解できていないことに原因を求めるべきでしょう。

 さらに、一瑠の主人公に対する気持ちとその逆とが釣り合っていないままにつき合いが始まってしまったことの悲劇は、最後になっても結局は変わっていません。ハッピーエンドルートであるにせよ、主人公の悲劇が決定的にはどこに帰着するのか。単純に「消えてしまう」ことへの恐れではなく、一瑠がどこかでかかわっていることは確かですが、彼女との別れが辛いのか、彼女を置いていくことが悲しいのか、あるいは彼女との想い出が消えてしまうのが悲しいのか、そういった要素がまったく切り分けられないままで決着づけられています。もちろん、エンディングで「別れ」を演出にする場合、そこには上記の各要素は混在するのがむしろ自然であって、通常であれば別に切り分ける必要などないでしょう。しかしこのストーリーでは、「感情理解とは何か」が重要なテーマになっている以上、「感情」がどのような形を取って表出したかの説明が絶対的に必要であるはずなのに、ここがすっぽり抜け落ちています。主人公の「涙」とは、どのような「感情」がうんだものだったのか、これが不明確なままに「感情」を出されても、それは「ハッピーエンドを示すための記号」としての意味をなすにとどまり、血肉を伴ったものにはなりません。

 

 さらに、ハッピーエンドとバッドエンド(学園祭での打ち上げに最後まで付き合った後のバッドエンド。以下同じ)との差が小さく、なぜ片方でハッピーエンドとなり、もう片方で後味の悪いバッドエンドになったのか、その説明がどうにもうまくできない点も指摘できます。

 展開を変える直接の原因が、単なる「電話が鳴る/受けるタイミング」だけだったという点もさることながら、そのときの主人公の心理状態には、有意な差があるようには見えません。まして、一瑠の主人公に対する感情には、まったく差はないといってよいでしょう。結局、ストーリーの流れを見た場合、単なる「偶然の結果によるハッピー/バッドの分かれ道」だったと考える方が良さそうです。

 そうすると、「感情を理解できた/理解できなかった」ではなく、あくまでも「感情を理解できたと表明する機会を土壇場でもてたかどうか」によって、運命が分かれてしまったと解釈可能ですが、こうなると、もはや「主人公の心理」の測定方法自体の客観性そのものが問われるわけで、ストーリーの中に込められた物語性が、もろくもグズグズと崩落しているといってよいでしょう。

 

 ハッピーエンドにしても、主人公の行動ないし思考は、あくまでも「合理性」の範囲内にとどまっています。そこには、一瑠に対する非合理的な「想い」が、見る者に伝わってきません。一瑠の側はきちんと立ち直っている以上、主人公の役割は最低限の役割はすでに果たされているわけで、残るは「恋愛の相手」となるわけですが、それがなければ話が弱くなるのも当然です。サポート役と恋人役との錯綜のなせる結果ですが、主人公が「自分の有効期間」について冷静に考えている状態では、「恋愛の相手」としては力不足なのは否めないでしょう。

 

 さらに致命的なのは、この「バッドエンド」は、主人公にとってのバッドエンドであるだけでなく、いなそれ以上に、一瑠にとってのバッドエンドにもなっていることです。主人公の選択によって彼女は結局救いを得られなかった、という結論になるわけですが、そこには「生身の人間を傷つける結果になることの意味」が欠落した、あまりにも冷酷な「神の判断」が介在しているといえます。

 より具体的に言えば、「システム」の判断それ自体が、主人公の運命だけでなく、一瑠という一人の人間の運命を決めてしまった、ということです。それも「主人公が主体的に変えた」のではなく、「最初から避け得ない悲劇として(あるいはハッピーエンドが用意され得ないことを前提として)作られていた」のでもなく、単純に「システムの判断」だけで、一瑠に笑顔が戻るかどうかが決まっているわけです。

 これは、恋愛を通じた人間感情の移り変わりを軸にする物語の描写として、はたして許される方法だといえるのでしょうか。

 上述のように、一瑠の感情描写がみごとにできているがゆえに、彼女の気持ちがまるで考慮されていない(エンディングに反映されていない)ことが浮き上がってしまっていることが、最大の問題でしょう。人間ならぬものを評価する「システム」が、正真正銘の人間(=一瑠)ひとりを踏み台にしていることの寒々しさのために、たとえこのルートでハッピーエンドになったにせよ、素直に喜べない結果をもたらしています。

 結局、このシナリオで示されている“ヒト”とは何なのでしょうか。主人公が目指していた“ヒト”の感情というものを、「システム」は的確に判断できるのでしょうか。

 樹里以上に、ハッピーエンドとバッドエンドとの区別が、やっつけ仕事でなされているとしか思えません。部分部分で非常にいい出来になっているだけに、竜頭蛇尾と感じさせるのが、一瑠のシナリオでしょう。

悲劇の輪転:素直、みさき、そして茅乃の場合

 過去のしがらみを引きずっているために、なかなか自分の「感情」をストレートに受け入れられない少女、それが素直だと言えましょう。一方、過去のしがらみがコンプレックスとなり、それが行動に投影されているのがみさきと言えるでしょうか。この両者は、かなり重なる部分があるので、ここでまとめて考えてみます。もっとも、シナリオの完成度でいえば、相当に大きな差があるのですけれど。

 

 まず素直シナリオは、ほかの各シナリオにくらべて、かなり完成度の高いものになっています。具体的には、キャラの出し方、主人公に惹かれる理由付け、「廃校」の使い方、「カメラ・写真」という小道具の活用、選択肢による分岐の必然性、エンディングでの主人公の立場といった要素があげられます。

 キャラの出し方については、当初は単なるそっけないだけのキャラが、第三者が見れば口説いているとしか思えないようなセリフを出すときに彼女が見せるリアクションなどを見せつつ、日常会話を拒絶しない段階になり、そして主人公に惹かれながらも自分の感情が整理できずにとまどうという心理が、的確に出されています。最初から無愛想なキャラクターとして設定されているために描写がやりやすいという面があった点も否定できませんが、彼女の心の動きには大きな無理はありません。

 「廃校」にしても、過去における「想い出の場所」を、すでに自分のもとにはなく、また過去においても自分の手の届かない存在であった特定の人物を介在させることで、単に「観念的なノスタルジーの象徴」に留まらず、行動の理由付けとして何ら無理のないものとして設定しています。「すでに失われたもの」を重ね合わせる結果、素直というヒロインの行動や心理がより具体的なものになっているといえます。皮肉な話ですが、『Moon Light』よりも、はるかにスマートに「廃校」を取り扱っているようにさえ思えます。

 「写真」というアイテムの使い方もうまく効いています。写真とは現在を過去形にして封じ込めるツールであるといえますが、この「過去」は、現在との関連というものが非常に重要になってきます。当然のことながら、記憶がない写真を見ても、それは純然たる過去の記録以上の役割は持ち得ず、現在を解釈する力はありません。中盤までは「過去に縛られている」ことを強く出していながら、最後の最後で「過去」をいったん総括し、新しい「現在」の起点を措定する象徴として、記念写真を据えているわけです。王道とはいえ非常によい使い方といえます。実際には、カメラの取り扱いなど、ツッコミどころは満載なのですが、それは一応ここでは見なかったことにするのが武士の情けというものでしょうか。

 さらに、主人公の心理も、全シナリオの中で一番(唯一?)ストレートに描けています。ひたすら「自然に、そう感じる」と主人公が繰り返し、そして自分の気持ちがコントロールできないさまに驚いているさまこそ、「感情」を主人公が得たことの証といえます。ハッピーエンドが(少なくとも主人公サイドから見た場合)看板に偽りなしとなっているのが、素直のルートであると言ってよいでしょう。

 

 また、ハッピーエンドにおいて、このシナリオでは唯一「広域的な調査」というくだりが出ている点も特筆できます。これは、少なくとも大学進学あるいはそれ以上というスパンでの計測が行われると見るのが妥当なので、短期的には主人公とヒロインとの間に決定的な問題をもたらすことはないわけです。もちろん、長期的には主人公の存在がいかなるものかを示さないわけにはいかないのですが(主人公は歳を取るのかどうか、などなど)、システムという存在をひとまず捨象するのであれば、一応無視することができます。

 

 しかし、ハッピーエンドとバッドエンドとを対照させると、主人公サイドで見るかぎりでは非常に説得力がありますが、彼女のバッドエンドに漂う悲しい雰囲気を素直サイドから見ると、どうにもやりきれないものが残るのも確かです。これは、彼女自身の中に「一歩踏み出す勇気がなかった」ことに直接的な原因があるわけで、したがって主人公には何の問題もないのですが、彼女の「想い」の対象が期限付きの特殊な存在であり、しかもそれが「2回目」であることは、完成度がほかのシナリオに比べてずっと高い素直シナリオといえども、致命的な問題点を拭い得ない証左になってしまっています。

 具体的にいえば、素直というヒロインが恋心を抱いた対象は、祥平そして主人公と、いずれも「プロトタイプ」であるわけですが、なぜこういったプロトタイプが「地理的に近接している場所」にわざわざ投入されたのか、という、根本的な疑問がつきまといます。これはみさきでもまったく同様ですが、実験体としてデータを収集するのであれば、主人公に対して不審感をもたれないようにすることはもちろん、周囲の人間の環境からの影響が極めて重要な要素になってくる以上、「主人公に近いサンプルに接した人間と接触する確率」は低くするのが当然です。端的に言えば、「祥平」を知っている人間とそうでない人間とは、主人公に対する対応が変化してもおかしくはないわけです(特に実験初期段階では似たようなものでしょうから)。

 この結果、素直にせよみさきにせよ、「プロトタイプに2度恋した娘」という意味づけがなされるわけですが、これに関する説明はいっさい行われていません。祥平という存在は「今はすでに消えた存在」として扱われるのみであり、それが「ヒトでない存在として彼女たちに何を残したのか」という視点が大きく欠落しています。

 当然ですが、このようなプロトタイプの投入をした「システム」の判断それ自体の合理性が大きく疑われることになるわけですが、それと同時に、この「不幸」に見舞われた彼女たちの立場に対するフォローが皆無というのは、やはり“ヒト”の尊厳に対する顧慮が決定的に抜けていることを示していると結論づけざるを得ません。

 一瑠の項目で触れた点ほど明確に出てくる問題点ではなく、言うなれば「詰めの甘さ」ともいうべきものかも知れませんが、しかし素直シナリオの場合、画竜点睛を欠いているのは事実です。彼女に微笑みが戻らなかった場合、いったいどこに原因があるのか。

 

 一方、みさきシナリオについては、茅乃の存在感を除けば、見るべきところはほとんどないといって良いでしょう。ハッピーエンドに至る過程の必然性の弱さは今さら指摘するまでもありませんが、みさきが、過去と現在との関係を自分の中でどうとらえているのか、あまりにも曖昧です。主人公の側を見ても、「記憶の重ね合わせ」の描写があまりにも稚拙で、心理描写の説明ができていません。さらに、プロトタイプへの二重の恋心という構図の後味の悪さは、素直のそれをそのまま踏襲しているのは言うまでもないでしょう。

 

 なお、素直およびみさきについて考えるのであれば、共通のキーパーソンである茅乃についても触れなくてはいけないでしょう。彼女の役割は、素直とみさきの両シナリオ間では微妙に違いがありますが、一応ここでまとめて扱います。

 みさきルートの終盤に出てくる彼女の話は、ただひたすら待ち続けるという「男にとって都合の良いヒロイン」に対して、痛烈な皮肉を放っているといえます。恋する気持ちの強弱と、それが人間をどう変えていくのかを、単線的に並べて「都合の良いハッピーエンド」を作り上げてしまうことのむなしさを思い起こさせてくれます。

 そしてまた、彼女のセリフは、素直シナリオにおける「思い出も大切なんだよ」という言葉とオーバーラップさせることで、ヒロインたる素直の気持ちをやさしく受け止め、そして素直の今後の気持ちをフォローする役割をも担っています。

 さらに、素直エンドでの茅乃の出番が「橋の上」というのは、『MoonLight』をプレイした人間にとっては、そこが「過去の日常」の象徴であることを想起させます(実際、『T3』の中で橋が出てくるのは素直が絡んでいるシーンばかりです)。そしてまた、「別れ」「思い出」といった手垢のついた言葉に活力を吹き込ませたのは、素直と茅乃という2人がいたからこそできたのでしょう。終盤なのに、主人公が蚊帳の外状態になっていても、それがむしろ自然だというのは、このイベントの特殊性を物語っているともいえます。

 非攻略対象の女性キャラが、主人公、およびほかのヒロインに対して、ここまでスマートに「自分の役割」を見せるケースは稀少です。もちろん「悲劇」を経験したという特権者という役割が茅乃にあったことも見逃せませんが、それでも「単なる先達」に留まっていないのは、素直シナリオでのエンディングを見るだけで十分に確認できます。

残り1名

 冴子シナリオにおいては、踏み込むべきものは何もありません。素直シナリオの良いところをそのままネガティブに裏返してしまったような観さえあります。よって省略。

まとめ

 キャラクターがなかなか魅力的に描かれており、このためツボにはまったキャラをプレイするのは非常に楽しいゲームとなっています。このキャラ描写だけでも、十分に楽しむことはできましょう。

 しかし、本来であれば、完全にブラックボックス化されてしかるべき「システム」およびその判断が、主人公およびヒロインの手を離れたところで大きくストーリーを左右してしまうのは、結局のところ「神の手から逃れられない人工的存在」を描いているに過ぎず、中途半端のそしりを免れません。さらに、その「神」の判断によって、現実に生活している生身の人間に与える影響を考えれば、その判断の反倫理性が浮き上がってしまいます。この部分に注目すれば、シナリオの根幹において致命的な矛盾があると判断せざるを得ず、人によってはこの部分をもって地雷呼ばわりしても致し方ないとさえ思えるものになっています。

 素直シナリオは、大きな問題を残しているものの、それが「詰めの甘さ」という言葉でフォロー可能な範囲でしたが、ほかのシナリオはフォローできる範囲内にはないでしょう。結局のところ、倫理的に「ヒト」の尊厳に直結する題材を不用意に使った結果だと判断せざるを得ません。そこには、プレイヤーの判断次第で展開が変わるというアドベンチャーゲームのパターンを用いながら、実際の展開ではプレイヤーとは異なる軸で「絶対的に規定されている世界の強権」がはびこってしまっています。

 すべてのシナリオが素直レベルになっていれば相当な作品になっていたでしょうし、また後味の悪いバッドエンドを何とかすればそれなりにいいものに仕上がったのではないか、という気がします。能力不足なのか拙速によるものなのかはわかりませんが、まだまだ完成度を上げられるのに妥協してしまった産物、と評しておきます。

2002年5月21日、暫定公開
6月9日、正式公開
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