「Silver Moon」「ONE」「Alive」「Rainy Blue」に見る「死別」の違い

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 メールにてお送りいただいた、BGMmasterさんの論をご紹介いたします。『Rainy Blue』を軸に、それ以前に発表されている『ONE』『Silver Moon』『Alive』を交えて、「死別」という設定がゲームの中でどう用いられているか、そして「死」に対する人物の動きをどう捉えるか、に関し、非常に興味深いご意見と受け止めております。

☆「Silve Moon」「ONE」「Alive」「Raniy Blue」に見る「死別」の違い

Kenさん、こんにちは。
以前掲示板で予告した通り、「Raniy Blue」について書こうかと思います。
(・・・筆が進まなかったので遅れました)
今回は「死別」に焦点を当て、「Rainy Blue」を中心にタイトルにある4作品の比較を試みようかと思います。
(丁度これを書いている間に「Lien」をやっていてたのですが、これも比較したくなってしまいました(^^;)

まずは「死別」(=永遠の別離)に伴う悲劇性について、私の考えを大まかに述べておきます。
(創作に於ける)「死別」は大きく分けて二つに分けられます。そのポイントは「事前に死期(或は死の予兆)を知っているか否か」。これによって描かれるべき内容が大きく変化することは、考えるまでもないでしょう。(本当はもっと細かく分類すべきですが、ここではこの程度に留めます)
死期を事前に知っている場合(「Silve Moon」「ONE」のケース)、描かれるべきは「死別の時までに何を築くか」の一点に集約されます。その瞬間までに築き上げた「絆」が奇跡を呼ぶ「ONE」、「心の整理」を描いてみせた「Silve Moon」、いずれもしっかりとした骨格を持っていると言ってよいでしょう。これらのケースでは、極論すれば物語は死別の「前」を描くことになります。
一方「突然の死別」がもたらす悲劇を描く場合、「残された者の苦悩・立ち直り」に焦点が絞られます(必ずしも立ち直る必然はありませんが)。この場合、物語は主に死別の「後」を描きます。「Alive」では、精神の安定を求める本能の表出に焦点を当て解析を試みました。今回の「Rainy Blue」もこの系統に属する作品であり、その中で何が描かれていたのか、改めて吟味してみたいと思います。
(尚、このように「死別」のもたらす意味に焦点を当て、「ONE」の茜シナリオ、「Silver Moon」を解析すると、大変面白いです。)

さて、「Rainy Blue」について考察してみます。
実は私は「蒼が死ぬ」という設定を全く知らずにゲームを開始したので(←本当)、開始直後のいきなりな展開に「成程、そう来たか」と思ったものです。それは前作「Silver Moon」とあわせて「死別」について網羅するものだと(勝手に)想像したわけですが。(^^;
しかしこの作品は、死別の訪れ方こそ突然ですが、その表現内容はこの型の死別に必ずしも引きずられたものではないようです。(悪く言えば相応しい内容ではない、ということですが)
この型の最大の特徴は言うまでもなく「予期できない」ことにあり、それゆえこれを用いるのであれば「残された者達の苦悩と回復」を「事件直後から」十全に描いてみせる必要があります。また、「残された者」の苦悩を知る上で、死者との生前の触れ合いを少なからず描くことも不可欠です。
物語の実質的な始まりが事件一月後に設定されていること、蒼の生前が殆んど描かれていないことを考えると、この作品は「死別」に何らかの「意味」(符合ではない)を持たせているとは考えにくいと思われます。
確かに主人公は「絵が描けなくなった」などの後遺症を抱えています。また、自殺を図るほど思い詰めていることも描写されています。しかしそれは、「蒼の死」が主人公にもたらした「結果」であって、そこへ至るまでの主人公の心の変化が描かれていない以上、「蒼の死」の(主人公にとっての)「意味」は表現されてはいません。

補記
但し、ここでいう「意味」とは、死別が残された者にもたらした「変化」であって、「結果」ではありません。極論すれば、死別を経験したものが悲しむのは当前であり、その様子だけを描くことには意味がありません。その事件に重さを持たせるには、それ以前との落差やそこを乗り越えていくときの困難を表現することが必要なはずです。少なくとも「ONE」「Siver Moon」「Alive」はこれらの点をしっかりと抑えています。

例えば、蒼の死後「初めて」キャンバスに向かったときに主人公が何を感じ、何故絵を描けなかったのか、蒼の死が主人公にもたらした「意味=変化」は、こういったところに現れるものだと思うのですが、その辺の描写が見事に欠落しています。


閑話。
「死別のもたらす意味」について、「ONE」と「Silver Moon」を比較してみます。(それほど突っ込んでは書きませんが)
「ONE」においては、正確には「消滅」ということになりますが、永遠の別離という観点からは同様に扱えますので、ここでは一括して「死別」という言葉を使います。

まず「ONE」(茜シナリオ除く)の場合、「死別」の兆候は「主人公のみ」に解る(判る)形で現れます。従って、その別離を予感しているのもまた、主人公ただ一人です。
この作品の特徴は「忘れ去られる」ことと「消滅」を同期させて表現し、それを死別になぞらえていることですが、この点に焦点を当てることで「人との絆(想いの繋がり)」こそが死別を回避する唯一の方法であるということを明確に提示しています。
こうしてみると、「ONE」における死別の意味は「ある人の中から、相手に対する認識が消えること」と言うことが出来、従って、主人公が感じる「死」に対する恐怖とは「自分が忘れ去られることへの恐怖」と同義であり、彼の求める「絆」とは生きていることの証であるわけです。
(以上、概ねKenさんが書いておられることですが)
そのことへの「気付き」こそが、この作品の主人公に託された大きな役割であったように思います。

一方「Silver Moon」においては、死別に対し「不可避の悲劇」という設定がなされています。これを主人公とヒロインの双方に提示することで、両者に「乗り越えるべき壁」という認識を持たせ、お互いを求めれば求めるほど後で傷つくことを認めながらも、それ以上の思い出を築こうとしています。更に死別の直前になって(主に)「相手への不安」という形で感情を暴走させた上でこれを乗りきらせており、総じて死別への「覚悟」が主要なモチーフと言うことができると思います。
これは王道とも言える内容なのですが、特徴的なのは「死」に対して受動的に相対するのではなく、最期の瞬間まで「主体的に」死に対して立ち向かっていく様が描写されていることでしょうか。また、乗り越えて行くときのヒロインの気持ちの整理の仕方に幅があり、「死別」に対する捉え方を一通りで済ませなかったことも評価に値すると思います。

「Lien」については、更に道を踏み外すことになるのでやめておきます。(^^;

閑話休題。
それでは「Rainy Blue」は何を描いていたのでしょうか?
実のところ、私にはさっぱり解らなかったのですが、テキストを可能な限り客観的に眺めると、どうやら以下のようになりそうです。

・碧シナリオ・・・蒼のことを吹っ切って再び絵を描けるようになるためにはもう一度誰かを本気で好きになることが必要だった。
構図としては、蒼の死によって人との絆に臆病になった主人公を描き、烏丸さんとの出会いによってその克服を描く。(真に「克服」と呼べるのもであるかどうかは、ここでは問わない)

・真黄シナリオ・・・蒼の死から立ち直れない主人公を心から心配する身近な存在の想いが、主人公を救済する。即ち、身近にいた大切な人への気付きと、それによる悲劇の克服。

・ましろシナリオ・・・未来を失いながら、なお未来への希望を捨てない少女の強さが主人公を打つ。その少女の弱さを知り、その力になることを望むことで自分を取り戻す主人公。
(ちなみにこのシナリオに於いて、「蒼の死」は二人の出逢いを演出する以上の役には立っていません。また、このシナリオではむしろ「来たるべきましろとの死別」の方に重点が置かれていると見るべきでしょう)

とまあ、こんなところでしょうか。(何分プレイしたのはかなり前なのでいい加減ですが)(^^;
こうして分析してしまうと無味乾燥で恐縮ですが、結局のところ全てのシナリオに共通しているのは「悲劇の克服」という一点であるように思います。しかし、これ自体は「死別」を描くのであれば当然出てくるものであり、「その過程に於いてプレイヤーに何を見せるか」という部分が欠落しています。即ち、「蒼」というキーパーソンの意義が非常に弱く、そのため(彼女の生前との落差が判然としないため)悲劇が悲劇としてプレイヤーに伝わってきていません。
端的に言えば、「蒼」と同じ時を過ごしてきた人(主人公も含む)の思いが極めて淡白です。例えばエンディングを迎えたとき、どの人物の中にも「蒼」はいません。「悲劇を克服する」ことと「忘れる」ことには大きな隔たりがありますが、「蒼」が「忘れられるための存在」として設定されており、その「死」の持つ意味も、記号化されたもの以上に感じないのは、果たして私だけでしょうか?
その最たる例が「今でも蒼のことを思い出してしまうことがある」という主人公のモノローグ(烏丸さんか真黄さんのエンディング)ですが、「しまう」とはまるで忘却することが良いことであるかのような言い様です。(そういう考えもあり得ますが、その場合はそれを明示すべき) 蒼に限らず、個々の人物間の絆が極めて希薄と言わざるを得ないのは、「死」を用いた表現をする作品としては致命的な弱点でしょう。

結局のところこの作品は「恋人の死」という設定を、「悲劇の符合」以上の意味で用いていなかったように思います。
その結果、(制作者の意図がどこにあったのかはさておき)個々のシナリオで描かれているものが少なからず異なり、(蒼との)「死別」という土台に焦点を当てて統一的な評価を下すことはできません。
その中で、ましろシナリオは事前に(ましろの)死期を認識しているケースと考えて解釈すれば光るものを持っており、これは別個に扱う必要があるかと思いますが、このシナリオでは「恋愛物」の要素がものの見事に欠落していると同時に、「肉体関係」の意味付けに致命的な表現不足(或は勘違い?)があるようです。(これもKenさんが指摘されていることですね)

また、「奇跡」についてですが、この作品の提示の仕方は最低に属するでしょう。(但しここで言う「奇跡」とは「蒼依が出現/存在すること」を指し示します。)
今作に於いて描かれるべきは、「残された者」が悲劇を如何に乗り越えていくか、その過程にあると言っても過言ではありませんが、「恋人の死」を乗りきる上で、最も重要なプロセスとも言える「自己破壊衝動の制御」を奇跡という形で突如現れた人形に託した時点で、この作品は「死別の克服」を表現する意思を放棄したと言って差し支えないでしょう。
これに対し「ONE」「Silver Moon」に見られる「奇跡」は、あくまで「死別の克服」を邪魔しません。これらの作品に於ける「死別」で描かれるべきは、(死に逝く者と残される者が)「死期」を受け入れることから出発し、残された時間の間に何を築くかにかかっているわけですが、いずれの作品にしても「奇跡」はその過程を終えた後に示されます。
つまるところ、「Silver Moon」にしても「ONE」にしても、「奇跡」とは(死別を乗り越えた先にある)「未来を導くもの」であったのに対し、「Rainy Blue」は(死別という名の悲劇を)「緩和するためのもの」です。更に言うと、蒼シナリオは「奇跡(蒼との再会)=悲劇が悲劇でなくなるだけのタネあかし」でしょう。
これは(少なくとも「死別」をテーマとするのであれば)御都合主義と言われても反論はできないと思われます。

物語全般で見ても、結局主人公を支えている人物は常に蒼依であり、主人公が自力では何一つ解決できていないことを考えると、この主人公は奇跡が起こらなければ何も出来なかったと言っているのと同じです。これほどまでに奇跡にしがみついた作品も珍しいでしょう。(悪い意味で)
おまけシナリオで橙也君が主人公を評して「自分に嘘をつくことが許せないからすべてため込んでしまう」と言っていた記憶があります。「なるほど、そういう人物として表現されていたのか」と思ったものですが、だからと言って人形(=知性と自由意思を持つ非生命体=人の口から愚痴を引き出す上で都合の良い存在)をその捌け口にする設定はやりすぎです。他人には言えない悩みを持ち苦悩することは誰もが経験することでしょうが、それゆえにこそ人との絆はその価値を増すのであり、どこまで自分を打ち明けられるかは、その相手に対する信頼の指標と言えるでしょう。そのような絆を求めることには相応の覚悟が必要ですが、それだけにそうして得られた絆は深く強いものであり、見る者を感動させる力を持ちます。(「Silver Moon」はこの点かなり良く出来ていました。例えば、主人公がしのぶに死の兆候を話すことを躊躇っていたシーンなど、表現内容は賛否両論でしょうが、制作者の意図ははっきりと感じ取れます)
その全てを、これまた人形に託してしまった時点で、この主人公は「人との繋がり」を拒絶した存在と成り下がっているように思います。これが顕著に現れたのは碧シナリオでしょうか。橙也君に「蒼の身代わりじゃ可哀想だぞ」と言われていたにも関わらず、結局言い出せなかった主人公の苦悩は、理解はできても許されるものではありません。この気持ちの解決まで蒼依という「人形」に託した(しかも一言二言叱咤されてあっさり気持を整理している)時点で、この主人公は蒼との思い出を大切にする気持ちも、烏丸さんを本当の意味で愛する機会も失ったと言えるように思います。

以上、この作品で描かれる「死別」の在り方について散々貶してきましたが、この批判を回避する議論が成立しないわけではありません。
それは「蒼シナリオこそこの作品の本編である」或は「蒼=蒼依であることを認め、他のシナリオを解釈しなおす」という立場をとることです。これは主人公を常に支える人物は蒼である、ということを認める立場になります。
確かにこの立場に立てば、この作品はひとつの恋愛物として許容することが可能です。しかし、その場合「何故蒼との死別を描いたのか?という根本的な疑問に答えることができません。
「死してなお恋人のためにこの世に残り、その力となり続ける美しい女性像」を描きたかったのだ、と言われれば納得はできますが、その観点で捉えて優れた作品とは到底思えません。

何故「死」をモチーフとしたのか、主人公の心(蒼依に言われて納得するのではなく、主体的な気持として)は何処に在るのか(或は初めからそんなものはないのか)、これらの疑問に対し明瞭な回答が得られないこの作品に対し高い評価を与えることは、少なくとも私にはできません。もし高く評価できるとすれば、それは「死別」という観点から離れたところで解釈しなおすことによってのみ実現されると感じています。


余談1・私的烏丸さん論(笑)
いわゆる「第一印象」というやつでは、この女性が一番好きでした。
しかしながら、この作品を通して感じたこの女性への感情は「怖い」です。(^^;
以下、その理由を述べてみたいと思います。
まず、烏丸さんの言動を見直してみますと「思い込みが激しい→勝手に自己完結する→一人で突っ走る」という傾向が見られます。加えて、「行動が突発的」という点も見逃せません。
主人公との付き合いを順を追って見ていきますが、まずは例の突然とも言えるHシーンです。私には「烏丸さんが一方的に迫った」ように見えるのですが、烏丸さん自身はどう感じでいたのでしょう?(^^;
次いで蒼の絵を見るシーンですが、ここでは「結果論として」烏丸さんの考えは的を射ています。つまり主人公は死んだ恋人のことを忘れられない、ということですが、死んだ恋人のことを忘れられないからといって、「自分は死んだ恋人の身代わり」と飛躍するのは短絡でしょう。そもそも、大切な女性だった人の絵をあっさり捨てられるような男に烏丸さんは惹かれるんでしょうかね?
更に直後の「学校では気まずくしないから」という科白。言ったからには守って欲しいんですけど。(^^; 「悲劇のヒロイン」を演じて周囲の気を引こうとしているように見えたのは私だけでしょうか?
「元に戻るだけ」という言葉にしても、「自分は前もこんなに不幸でした。これからも(あなたのせいで)不幸です」と言っているようにしか聞こえないんですけど・・・。
トドメがラストシーンの逃走ですね。「主人公の話は聞く耳持たない」とう態度は、気持ちは解りますが実際に行動に移されると自分に酔ってるだけにしか見えません。
以上総合すると「自分が最も大事な人」という印象を受けました。それはそれで構わないのですが、普段はそれを表に出さないので「真意が解らない女性」「常に何かを隠している女性」というのが私なりの評価です。

余談2・一人称形式について
「Rainy Blue」は一人称形式を採っていますが、シナリオライターさんの文体は根本的にこの形式には合っていないように感じます。即ち、一人称にしては描写が客観的に過ぎます。
特に主人公が自分の感情を説明するような場面ではこれが顕著です。一人称でありながら、語っているのは主人公Mk.2という印象を受けました。とにかく至る場面で「冷静な主人公Mk.2」が顔を覗かせています。所謂「説明台詞」というか「説明モノローグ」というか、これがあまりも目についたことが残念でした(折角「悪文王」から脱出できた(そう?)だったのに(^^;)。


といわけで、長々と付き合わせてしまって申し訳ありません。
今回はKenさんのレビューに対する意見というよりは、私なりの解釈という感覚で書きましたので、引用は無しです。
Kenさんのレビューを拝見して思ったのは、Kenさんが先入観を持たずにプレイされたということです。特に『主人公の心理描写についても、ましろではかなり弱いものの、真黄シナリオや碧シナリオでは、むしろ「把握できない心境を持て余している」様をきちんと描いている点は評価できましょう。』という一文には、大いに納得させられたものです。
私の場合、「死別」というモチーフに対する期待と、「蒼依」という存在がネックになって、どうしても主人公の気持ちを推し測ることができませんでしたが、この解釈が成立することは少なからず衝撃を受けました。

書き切れなかった部分等、多々ありますが、とりあえず脱稿したのでお送りいたします。
Kenさんの思索の一助になれば幸いです。

では。

文:BGMmaster(s30y1646@ip.media.kyoto-u.ac.jp)さん


 ありがとうございますm(__)m  本当は責任をもって何らかのコメントを付すべきなのでしょうが、当方もいまだにリプレイしていない上、最近「消化しなくてはいけないゲーム群」の中に埋もれて印象が薄くなっているのが実情なので、イメージそのものが漠然とし過ぎており、詳細な検討はちょっと無理です(^^;)
 本来ならば、さっさとレビューの決定稿を上げないといけないのでしょうが…精進しますデス、ハイ。

Ken 拝
2000年4月18日

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