カナン 〜約束の地〜 フォア・ナイン

ご意見などは掲示板へどうぞ

 メールにてお送りいただいた、BGMmasterさんの論をご紹介いたします。
 私が書いたレビューとはいろいろと対照的なご意見ですので、なかなかに興味深く拝読いたしました。
 ちなみに、このメールを頂いたのは、なんと1月31日…どうにも申し訳ありませんです、ハイm(__)m

 Kenさん、お久しぶりです。BGMmasterです。
 メールが遅れてしまい申し訳ありません。
 『カナン』の感想またはレビューを、と思ったのですが、うまく纏まりそうになかったので、Kenさんのレビューを足掛かりとして「私はこう思う」といったことを書こうと思います。
 (書き上げてみると、当初の予定より随分と辛辣になっていました。読まれるのであれば、ある程度構えておいて下さい。また、この文章はろくに校正もしていません。手直ししたい・・・というより、全面的に書き直したいところですが、これ以上遅くなるのも申し訳ないので、Ver.0.5ということでお送りします。)

 まず最初に、私のGAOGAOに対する評価ですが、『パンドラの森』6点、『ワイルドフォース』9点、『カナン』8点としておきます。結局『ワイルドフォース』が最高点を占めることになりました。これについて、端的な(Kenさんの納得のいくような)説明をすることは、ほぼ不可能であると考えていますが、それは私が『カナン』をプレイしてまず最初に感じた疑問が「Kenさんは何故この作品に満点をつけたのか?」であったことから、ある程度はお察し戴けるものを思います。(つまり、ゲームに対する姿勢や日常的な興味、これまでに見聞きしてきた経験が絡んでくるということ)従って、後出しのようで卑怯な気もしますが、Kenさんのレビューを叩き台とすることは、私たちの評価の相違を明確にする上で、一定のメリットを有するものと考えております。

 まあ、堅苦しいのはこれくらいとして、Kenさんのレビューから興味深い箇所をピックアップしたいと思います。(メールなので、省略等は致しません)

<シナリオの構造について>
 まず、シナリオの構造として特筆すべきは、主人公を二人設定していることが挙げられます。その一方は、「世間」(あるいは「外界」)に関する知識を書物の中でしか得たことのない少年であり、頼るすべを持たない。もう一方は、数多くの修羅場をくぐり抜け、また頼りになる相棒に恵まれている。思い切り不均衡この上ない組み合わせですが、この二人の相異なる「視点」で物語が叙述されます。
 この、「視点の切り替え」は、価値観を転倒させる役割として見た場合、ほとんど意味を持っていません。例えば、「ニンゲン」カイトは、途中で変異体に襲われるという災難に遭いますが、その変異体は、少なくともプレイヤーサイドでは「責を負わせるべき"悪"の主体ではない」とわかっています。要するに、見えていないものが見える、というよりは、「見えない」ゆえに滑稽なすれ違いが発生する、という次元に留まっています。もちろん、ここで、その「すれ違い」という効果を過小評価するのは、ストーリーテリングの方法論に対して偏った評価をなすことに他ならないわけですが、あたかも「それによって初めて見える何かがある」といった幻想に惑わされるのは、マルチサイト信奉が行き着いた果ての傲慢な行動に他なりません。

 この点については同感です。しかし、ストーリーテリングの方法として「マルチサイト」を登用した以上、そこに何らかの意義がなければ、それは作り手の自己満足で終わってしまいます。この点について、私は次の一節に疑問を感じています。

<ストーリーの流れとテーマについて>
 しかし、「演出」として見ると、一つの「物語」が、違う角度で把握されることによって、また異なるフィルターを通すことによって、変化していくのは確かです。その結果、「次がどうなっているのか」と、見るものを知らず知らずのうちにその世界へと引き込んでいくことになります。もちろん、その背景には、「流れ」を停止させないようなテキストがあることが前提となっているわけですが、『カナン』の中では、そのレベルの問は、むしろ失礼に当たりましょう。
 まず一点目に「本当に流れが損なわれていないか?」、二点目に「物語の全体像を把握する上で、この二人の主人公の選択は(フィルターとして)適切か?」という疑問をぶつけてみましょう。
 ここで考えるべきは、この作品のプレイヤーの多くが、前作『ワイルドフォース』を経験済みであり、作り手もそれを意識した構成をしている、ということです。従って、プレイヤーにとって思い入れの深いキャラクターはウルフィであって、カイトではありません。最初のうちはカイトのシナリオを容け入れられても、話が進むにつて、彼らのシナリオが鬱 陶しく感じられた人も多かったのではないかと思われます。
 事実、カイトのシナリオは話が進むにつれてウルフィのシナリオに吸収され、最後に彼の存在感が極めて希薄となったのは、Kenさんも書いておられることです。カイトのシナリオには「アンジェラ」というメインヒロインの魅力を知らしめるという役割もあるのですが、これまた失敗に終わっているのは、「キャラクターその1」というKenさんのお言葉から判る通りです。
 この作品の抱えるテーマを考えたとき、「人間と変異体」というのは一見本質的な対立のようで、実は本質的ではありません。むしろ重要なのは、互いの対立の根底にある理由、即ち相手に対する無知から来る誤解(変異体側)と、自分達の存在を脅かす敵としての侮蔑を含んだ認識(人間側)であり、カイトが後者に該当しないことが判ります(カイトが持っているのは「恐怖」であって「侮蔑」ではありません)。この点については、「「視点の切り替え」は、価値観を転倒させる役割として見た場合、ほとんど意味を持っていません。」と書いておられる通り、Kenさん御自身も把握されていることです。しかしながら、その「価値観の転倒」こそが、後々Kenさんが述べておられる「ひとの善悪をゼロサム的に適用して分類するといったディジタル的発想」を排除する上で強い説得力を与えるものであったということに、何故気付いておられないのか。或は気付いておられつつも過小評価してしまっているのか。これが大きな謎として残っています。(これについては、後程再度触れたいと思います。)
 個人的には、主人公としてアリスasビアンカ、或は人間と変異体の双方を客体化し得るブルーあたりを持ってきた方が、作品のテーマをより深く掘り下げられた気がしてなりません。

 マルチサイトという手法を用いる以上、私は
1.ストーリテリングの上でプレイヤーを物語に引き込むパワーを産み出す
2.二人の主人公によって、物語の裏側が見えてくる
のいずれか(或は両方)が満たされる必要があると考えています。Kenさんは1が満たされていると判断されたようですが、上に述べてきたように、それにしては主人公が釣り合っていない気がしています。つまり、ウルフィもカイトも根が善人(良識人と言った方が適切か?)であるために人格上の対立点が極めて少なく、その割にウルフィの方が「前作で知られている」「能力が高い」「仲間が多い」といった優位性を持っているので、これではカイトの影が薄くなるのも当然と言えましょう。結果、シナリオの本流がウルフィに傾き、カイトのシナリオが挿入される度、作品の流れを停滞させているように感じられます。

(ストーリーテリングの方法としての優れたマルチサイトシステムを持った作品として、『EVE burst error』をお薦めしておきます。)

<シナリオの吸引力・伏線について(具体例)>
 展開そのものも非常によく考えられています。伏線を張り、後にネタを明らかにする、というのは、どんなゲームのシナリオでも共通しているわけですが、たいていの場合は、伏線が張られた時点で、その結末がどうなるか見当がつくケースが多いですし、そうでない場合でも「これが何かの伏線だな」とすぐにわかります。この『カナン』でも、やはりそういったケースが多いのですが、大小まじえて出てくるクライマックスシーン付近で使われる伏線の場合、まずそれに気付くことがありませんでした。これは、三部作のうち、第一作目・二作目をプレイしていないことを差し引いて考えるべきかも知れませんが、例えば、「カプセルの中のラビィ」、「ビィの正体」といったあたり、話の展開を「とにかく知りたい」という気持ちが先走った結果、一歩下がれば(例えば、活字等で明記されたものを再読すれば)容易にわかる伏線も、あっさりと見過ごしてしまい、後に「やられた!」と思ったものです。
 これが、この作品に対する私とKenさんの評価を最も大きく隔てたものと考えます。私が伏線で気付かず「やられた」と思ったのは、ビィだけでしたし・・・。(そこまで夢中になってないかった、とも言えましょう)特に「カプセルの中のラビィ」については、強烈な違和感(嫌悪感と言ってもよい)をおぼえました。これは、伏線として「クローン」が出てきた時点から「ちょっと待て」とは思っていたのですが、実際に懸念が現実化したときは、作品に対する熱が一気に醒めたのを覚えています。
 何故「クローン」が出てきてはならないか。それは、前作『ワイルドフォース』で「魂」が出てきているからです。『ワイルドフォース』において、「魂」とは飽くまで過去の人格を現在に運ぶための装置に徹しました。ゆえに、「生命」という問題を表面化させずにいることが可能だったのです。しかし、これに「肉体」という要素が絡むと「生命」「個人」といった観点が浮彫りにされてしまいます。これについて話し始めると切りがないので止めておきますが、ラビィ(ファーもですが)をあのような形で扱った以上、この作品は「適当な『容れ物』に『魂』(あるいは人格/記憶)が入ってさえいれば、それは人間であり生きている」と考えているに等しいですね。じゃあ、死んだラビィって一体何?と、まあそういうところが気持ち悪いわけです。こういうことされるくらいなら、『To Heart』のマルチの方がよほど芯が通ってるな、と。

<作品のテーマと主人公の関係について>
 キャラクターに焦点を当てた場合、ウルフィの「好奇心旺盛で楽観的だが情けに篤く常に前向き」、カイトの「生真面目で純情だが気弱で臆病」というキャラクターが、まことに対照的な形で設定されています。中盤までは、この両者 の視点から語られる「物語」が、かなり拮抗した展開を見せるものの、終盤になると、事実上ウルフィの独壇場となります。実際には、クライマックスとなるシーンを「把握・処理」し切れるのは、それまでに得ていた情報量・人脈が圧倒的に多いウルフィの方であって、無理にカイトの存在感を増そうとしたところで、ストーリー上の不整合が増すばかりでしょうから、ウルフィを主人公の一方として用意した時点で、こうなるのは必然といってよかった、と思います。
 確かに必然です。それは私も前述しましたが、カイトの設定が問題を抱えていることを、今一度強調しておきます。
 前作『ワイルドフォース』で与えられた人間像は「狡猾・非情・変異体を敵視しており、地上の覇権を狙っている」。カイトの「気弱で臆病」という性格は、ウルフィに対照されるものではなく、この人間像に対照されるものであると捉えるべきでしょう。マルチサイトであれば、Kenさんがご指摘されているように、対照とされるのは二人の主人公(或はその立場や視点)であって然るべきなのですが、本作品のテーマに「共存・融和」が大きな割合を占める以上、主人公二人に対照とされるべき本質的な違いはありません。無論、人間と変異体という二項対立は、「立場によっては」非常に大きな対立因子でありますが、カイトのような立場・性格の者にとっては、さほど大きなファクターとはなり得ません。「種族間の」共存・融和を描くのであれば、それに困難を感じている立場の人間、即ち指導者や民族主義者の類(どちらかと言えば前者の方がシナリオは作り易そうです)こそが、ウルフィに対立すべき主人公として選ばれるべきではなかったかと考える次第です。

 以上の纏め。
 カイトを主人公に選んだ意図が明確に伝わってこない。その結果、ふたつのシナリオがアンバランスになり、マルチサイトを登用した意味も見出せない。

<テーマに沿った個別解析>
 続いて、エンディングについて。
 前作の終え方から見ても、救いようのないエンディングではなかろう、ということは予想がついていましたが、それでも、あのエンディングにはやられました。勧善懲悪、あるいは単純な五族共和の実現というお伽話で締めくくることなく、ゲームに登場したキャラクターたち一人一人が、それぞれの中で「関係」を再認識し、そして新しい世界認識を作り、その総体として「エンディングの世界」が結実する、という形になっています。それを「用意されたエンディング」と評することも可能ですが、観念的な予定調和という方法を一切排し、壮大な「再構築」を、愚直なまでに実現させたエンディングは、昨今の「感動をもたらすエンディング」につきものの浮薄さとは無縁のもののようにさえ感じます。

 エンディングについは「やっぱりそうなるの」という感情しか湧いてこなかった(何かKenさんに喧嘩を売っているとしか思えない(^^;)以上、予定調和だと思っております。で、その理由ですが、エンディングの軸となるイリアとブルーの関係の変化が、いかにもとってつけたようだったからですね。イリアの髪飾りの話が何故『ワイルドフォース』のときに出てこなかったか?ブルーには(あのシーンで言うよりは)言うべき機会があったはず。これが最後まで尾をひきました。
 また、例えばウォーレン博士、彼が変化していく上で最も重要な出来事は言うまでもなく「ルゥリィの死」ですが、ラビィやウルフィの無茶な復活劇に較べ、彼女の死はあまりにアンバランスです。何と言うか、「ああ、ルゥリィってそういう『道具』だったんだな」という感情を抱かせます。
 Kenさんの論調に合わせて語るなら、各登場人物達が、あまりに素直に関係を再認識し過ぎており、そのブレイクスルーに迫力を感じない、ということになります。エンディングを総括すると、私には「『すれ違っていた者達』が、お互い理解を深め合い、新しい関係を築きました。めでたしめでたし」と見えるのですが・・・。エンディングの中に、キャシーのような人間が一人でもいれば、また評価も違ってきましょうが、そういう反乱因子を排除した果てにある結果と考えれば、予定の範囲内に思える次第です。

 尚、「個人を取り巻く関係の認識」という意味では、多くの人間が大きな「変化」を容け入れています。しかし、「個人の在り方」という意味においては、実はそれほどの変化(成長)が見られなかったのは残念なところ。一見大きく変わったように見えるブルーも、その実「何者かを庇護することによって自己を安定させている」という本質は変わっていなかったりします(対象が「闇喰い」から「イリア」へと移っただけ)。彼が「自分のために」生きる日は来るのでしょうか・・・。
 この点においては、カイトとエルザが最も大きな変化を迎ているので、個人の成長物語として考えるのであれば、カイトを主人公にした意味はあったのかもしれません。しかしそれは、作品のテーマを著しく矮小化するにすぎない解釈でしょう。

<善悪の観念について>
 そこでは、ひとの善悪をゼロサム的に適用して分類するといったディジタル的発想は注意深く取り除かれています。ひとが心に何かを抱えているというのは、善人だろうが悪人だろうが同じコト。悪人に天誅が下るといったお気楽さも改心すればみな善人といったお気楽さもありません。抱えるものから逃げずに生きる、それが可能なはずであること。このゲームの中でのキャラクターは、そういった作用を示してくれているように思えます。
 この作品、一見善悪を分類していないようで、「侮蔑」という「悪」を真っ向から否定しているように思います。そして、それこそが人間側から変異体への歩み寄りを最も強く拒絶させている因子なのですが・・・。
 これに対するブレイクスルー(侮蔑を「悪」と認めた上での認識の改新)が全く見られなかったのは、この作品のテーマに大きく影を落としているように思います。
 従って、ビアトリス&キャシーは悪人に天誅だったような気が・・・。というか、所詮そういう『道具』扱いされていたように思えます。
 逆に、カイトは「侮蔑」の代わりに「恐怖」を持っていますし、イリアは「憎しみ/怒り」に変えられています。主人公サイドは決して「悪」ではないんですね。
 この辺、巧みと言えば巧みですが、作品のテーマを考えれば自ずと導き出される気が。Kenさんが気付いておられないとも考えにくいので、お考えを伺いたいところです。

 「分をわきまえる」「分不相応」と「諦める」「諦めない」は、表現が違うだけで、実質的には同義であることが多いのですが、作品中では前者を悪、後者を善としている節があります。分をわきまえなかったラビィは死すべくして死に、前進を続けたウルフィには奇跡(ラビィ復活)が訪れましたから。
 あれが「善行を重ね続けたウルフィに神様からのプレゼント」といった予定調和に見えたのは、私だけですか?
 対照的に、アリスはビアンカの回復を「諦めて」しまったが故に、スザク暴走と自身の死という結末を招いたのは、やはり天誅に見えるんですよね。
 ウォーレン博士の場合は、世の中に対する諦観、その派生としての周囲への無関心が、やはりルゥリィの死という惨劇を招きます。彼が改心してゆく過程も、やはり勧善型の予定調和に映ります。(彼の中にルゥリィが残るのならまだしも、ティティという慰め役がしっかり用意されているあたりが特に)

 たとえ作品中で「これは悪」と明言されていなくとも、また、登場人物達の共通認識としての「悪」が存在していなくても、この作品には「神の意思」とも言うべき作者の願望が反映されているように思います。それ(作者の願望が入ること)が悪いとは言いませんが、私には「改心すればみな善人といったお気楽さもありません」というよりは、「正しいものは救われる」といった、(悪い意味での)宗教的な安直さが見え隠れしているように思います。

 余談ですが、善悪については、『聖魔大戦』がなかなかに見通しの良い作品だったように思います。あの作品では、「それぞれの国の中」では善悪が(教義という形で)明言されているのですが、そこに二国間の対立を持ち込むことによって、それらの観念が如何に局所的なものであるかを表現していますね。

<メインテーマ・共存と融和について>
 さらに、シナリオ全体を貫くテーマについて見た場合、そこにあるのは「異なる種族が反目しあう構造、そしてそれらが共存・融和していく過程」があり、なおかつ、「各人個別で善悪・是非を問うことの限界」をも示している、と言えます。
 同感です。ただ、それが不完全であると感じているのはこれまで書いてきた通りです。

 前者のテーマをわかりやすくいえば、要するに、相互に接触がないグループが相互に対立したり、あるいは根幹では同一のグループが何らかの要因で(一部が残りを排除する形で)グループとして分裂したりというケースにおいて、「ひと」としていかなる対応をするのが「理想的な一形態」足りうるか、ということだと感じます。視点によっては様々な回答が得られる(あるいは、得られない)でしょうが、国際政治や比較文化論に対して関心を持つ人は勿論、そうでなくとも、冷戦崩壊後の混沌たる世界秩序の中、性質を異とするグループが共存していくことが現実問題としていかに難しいか、は判るはずです。しかし、これを解決しなければ、不幸が再生産されるばかりである、これも自明でしょう。この難問に対し、一義的かつ明快な回答を、いうならば「神の啓示」のごとく出されたところで、それは「綺麗事」という注釈付きで頭の奥底に追いやられることとなります。しかし、事態を解決するには、当事者の主体的な活動がなによりも不可欠であり、天下り的な「理性」「倫理」「ヒューマニズム」といった「尺度」を適用し、それを強制することが、長期的には大した役には立たないということは、皮肉にも20世紀に流された血の量が無言で証明していると言えましょう。そういう「過酷なる現実」を見た場合でも、そこで絶望しては何も起こらないし、何も進まない。そんな「重苦しさ」を抱えているのが、特に冷戦崩壊以降の世界であると私は思っているのですが、そういった「重苦しさ」を、「ケセラセラ」と吹き飛ばしながら、あくまでも「目に見える、そして手に届く範囲で」事態を前進させていくという、キャラクターたちの行動。まさに、ともすれば明日を見失いがちな現代地球人(そう、「資本主義」という怪物にすべてを託し、その中で自己存在を明確にして自己完結を図りがちな「現代人」!)に対し、チクッと刺すような「何か」を見せているように思います。
 う〜ん・・・この作品でここまで話を拡げられてしまうと、さすがに戸惑ってしまうのですが、「善悪の観念を内包しつつその限界を容け入れ、己にできる限りのことを」という作品は、ゲーム(特に18禁)では珍しいのでKenさんに受けが良かったのでは、という気がしてしまいます。とりあえず、以前掲示板にてお薦めした冴木忍女史の「星の大地」とか「卵王子シリーズ」、コンシューマの『タクティクスオウガ』、PCゲームでは「Phantom」などを、再度推薦させて頂きます。もう少し真面目な文学の類だと、ユゴーの「93年」などでしょうか(文系のKenさんにお薦めするようなものではないのかもしれませんが)。これらを御覧になられた上で、Kenさんの『カナン』に対する評価を改めて伺いたい、というのが、私の正直な気持ちです。
 (↑かなりムチャを言っているのは自覚しておりますm(__)m)

 気付いたのでもうひとつ追記。
 この作品、「相互に接触がない」グループを扱っているわけではありませんね。人間側は変異体側を非常に正確に把握していますが、変異体側は人間側の存在すら認識していません。従って「対立」というよりは「一方的な憎悪」であって、この格差が融和のプロセスを大幅に簡易化しているように思います。つまり、変異体側には、人間を受け入れる上での障害がない。従って、人間側の不穏因子を排除できれば、それで解答が出てしまうんですね。私にはこれが不満だったのかも。

 ひとつ言わせて戴けるなら、創作の世界の方が冷戦後の世界に比して共存が容易であるのは、(正誤ひっくるめて)情報の流通量が少ないからだと思っています。この点について考えておられるところをお聞かせ頂けたら、と思います。

<(多分)サブテーマ・善悪について>
 後者のテーマでいえば、善悪を個々人のレベルに還元して終始するといった醜態から見事に逃れている、という潔さがあります。いわゆる「不祥事」と呼ばれるような事件が表面化した場合、責任を明確にすべき、と、声高に叫ぶ人は多いですし、それはそれで「正論」なのですが、個人がどのように「関係」を形成し、その「関係」がいかにして「共同体(あるいは「集団」)」に昇華したか、そして、人がアイデンティファイ可能な「グループ」とは、どのような集団意識に立脚しているのか、そういった点に対してはことごとく沈黙するケースが、どれだけ多いことか。「責任」を問われるべき「個別」が、どのように「集団」を形成したか、そこから目を背けては、底の浅い「個人主義」崇拝へと直結するか、あるいは「個別」の暴走を抑制するという側面のみを見て「集団主義(これが、核を持ったコントロールされる客体になれば「全体主義」へと発展する)」へと走るか、そのいずれかしか(少なくとも論理的には)あり得ないでしょう。
 これは全く以て同感です。
 だからこそ、ビアトリス&キャシーの死に方や、アリスの研究に対するカイト達(人間)の反応が気に食わないんですが。
 『カナン』の世界で、人間が変異体を毛嫌いし、侮蔑し、モノのように扱うことが本当に「悪」なのか?その背景を無視して、彼女達は本当に道具として死んでいく程度の価値しか持たない存在だったのでしょうか?(私が、こういう人間こそが一方の主人公であってもよかったと思っているのは、先に述べた通りです)カイトにはそういう「人間」の気持ちを少しも理解できなかったでしょうか?(というか、そういう人間の心情を変異体側に伝えてやるのが彼の人間/主人公としての使命だと思う)こういった疑問に対する有効な回答を得られていないために、いかにも「巧く誤魔化された」ように感じています。

<集団行動の原理について>
 いずれにせよ、未来へと希望のある形で解決を図ろうとすれば、個別の人物がどのような判断をしているか、そこから絶対に目を離してはいけないはずです。しかし、「集団」を客体化・抽象化した上で、それがあたかも有機体であるかのように扱うという「安易」な方法で満足しがちなのが、近代に蔓延している「物語」構造の典型でしょう。このゲームにおけるウルフィたちの行動は、こういった「物語」構造を、破壊はしないまでも、その呪縛から巧妙に逃れ、「個」の「集団」への埋没というワナから、見事にすり抜けている、といえます。さらに、その根底に流れているのは、社会批判をバックボーンとしたものでは決してなく、個々人の「本能的な判断」です。いうなれば「作者という"神"の論理」が背景にありますが、その論理に対して受ける説得力の大きさたるや、ゲームというメディアでは、前代未聞であると感じます。
 さて、作者の論理の説得力ですが、私が科学者の所為か、集団をモデル化した方が「まだ」説得力が強いように感じます。この作品に対して説得力を感じる、というのは、ウルフィ達の(行き当たりばったりの)行動がバタフライ効果の如く周囲に波及するということになりますから。というか、結局ウルフィ達は「カイト」という個を見て「人間」という全体を理解したつもりになっている気がします。それを「本能的な判断」と呼ぶのであればそうでしょうし、正鵠とはいかないまでも、的を射ていることも事実ですが、そういった判断が必ずしも集団の大多数へと伝播するとは限りません。要するに作者の論理には、集団内部における情報の影響が考慮されているとは考えにくいんですね。それができないなら、「集団」をひとつの個体として見てしまっても仕方ないかな、と。

 人が(集団で)動くのは、真に必要に迫られたとき、そしてそれが「目に見えて」顕在化したときです。この作品で言えばシティの爆発、スザクの暴走etc.。カイトの旅立ちもそういう要素を含んでいますね。個の判断が効いてくるのは、そういった機に乗じた場合。無論、そのような個人的判断が育まれる土壌は、社会に潜在しているわけですが・・・。


 以下は雑文のレベルですので。

 Hシーンが多すぎるのも前作譲りで、時間的に「そろそろくるかな」と思ったら、やっぱり始まる、という感じですが、大半のシーンは回避可能となっているので、鬱陶しければパスしてどんどん進めるのがいいですね。実際、私は、ラビィと、ラストのアレ以外、すべてパスしましたから。是非の議論は分かれるでしょうけれど、シナリオの魅力がこれだけのものである以上、さして「見たい」という気がなければ、さっさとすっ飛ばせば良いのではないでしょうか。無理にHシーンをいれるのはどうか、という意見もあるでしょうが、見たい人もいるでしょうし、
 シナリオの魅力に注視するのも大事ですが、これだけのシーンが用意されている以上、やはり制作者が相当の力を注いだことは事実です。おそらくはシナリオの本筋と同レベルに。
 この作品を評価するのであれば、やはりこの点にも注目すべきであると思います。個人的には、作品の焦点が呆けてしまうののみならず、シナリオの流れが大きく阻害されるので、多すぎるのは問題ありだと思っておりますが。

 「変異体のコミュニケーションとはこーゆーものだ」という受け止め方も可能でしょうし(ほんまかいな)。
 無理でしょう。ラビィとウルフィが出会った頃のことを考えただけでも、これを否定するには十分です。

 「ANEX86」では、「ステレオFM音源」での再生でした。「オープニング」のノリの良さ、そして「約束」の雰囲気の良さが気に入りました。ただ、前作『ワイルドフォース』の方が、より曲の効果は大きかったように思えます。評判を聞くところでは、MIDIでのBGMは秀逸らしいのですが、こればっかりはエミュレータの能力を超えているようです。
 OPの曲は良いですね。是非ともMIDIで聴ける日が来て欲しいものです。



 最後に総評を。
 結局のところ、突き詰められていなかった裏設定、その結果としての細部の綻びが、作品全体を御都合主義的なものにしてしまったように感じています(作者にそのような意図がなかったにせよ)。
 これまでに挙げなかった例として、たとえば「共振」。どうして、ああいう都合の良い時に「奇跡」を運んでくるんでしょうね?(起きないから奇跡と言うのも事実ですが、創作では都合の良いときに起きるのも奇跡。タイミングや使い方を誤ると御都合主義・・・)
 ラビィ復活もそうですが、ウルフィの復活のときなど「肉体」の意義の希薄さをどれほど感じたことか。反対に「人間が激減したのは、変異体に比べ環境適応能力が低かったから」。ここでは「肉体」が非情に重要なファクターとなっています。この辺のダブルスタンダードが、いかにも御都合主義に見えてしまいます。
 まあ、こういったことに目を向けすぎると「木を見て森を見ず」になってしまうので、これで止めておきますが、作品全体を見渡しても、同様のテーマを内包した、もう少し優れた作品があるように思えます。正直なところ「感動の名作」と言うには抵抗がありますが、あまりテーマを気にせずに「世界に浸る」つもりで楽しめば、非常にワクワクさせてくれる作品であることは確かなので、評価としては8点としたいと思います。

 それにしても、改めて見てみると、本当に様々なテーマを内包した作品だと思い知らされます。これらのテーマは個人レベルのものと社会レベルのものとに分離して、個別に考えねばなりませんが、どうやら私は十把一絡に捉えてしまったようで、未だに整理がついていません。こんな状態で書いたので、まとまりがなくKenさんには申し訳ないと思っておりますが、御容赦下さい。一月くらいして改めて読み直したとき、自分の文章をどう感じるのかが、今から怖かったりします。

文:BGMmaster(s30y1646@ip.media.kyoto-u.ac.jp)さん


 ありがとうございますm(__)m  本当は責任をもって何らかのコメントを付すべきなのでしょうが、当方もいまだにリプレイしていない上、最近「消化しなくてはいけないゲーム群」の中に埋もれて印象が薄くなっているのが実情なので、イメージそのものが漠然とし過ぎており、詳細な検討はちょっと無理です(^^;)
 本来ならば、さっさとレビューの決定稿を上げないといけないのでしょうが…精進しますデス、ハイ。
 …って、どっかでコレ書いたことあるなぁ、オレ(^^;;;;;  いえ、マジで、地雷処理に時間を割くよりも、『カナン』をゆっくりリプレイした方が精神衛生上もおそらく良いであろうことは、頭ではわかっているんですけどね…トホホ。

 私がプレイしたときには、確かにゲームを非常に心地よく進めることができましたし、エンディングを迎えたときにもすがすがしい爽快感を感じたものです。少なくとも、この主観的体験自体は事実ですし、レビューもそれに従って書いたものなので、一応個別のポイントに対してお答えすることは可能ではありますが、単なる「個別的な反論」になってしまいかねませんので、一度最初からリプレイして、自分の「受けた印象」の根拠を見つめ直し、改めて、きちんとした対論をご用意したいと思います。いつになるかはわかりませんが…ヾ(^^;
 さらに、サブタイトルとして、またゲーム内における理想郷の名辞として用いられている「カナン」自体に引きずられた感も否定できません。「カナン」(アラビア語では「カナーン」と発音されます)は、エルサレム周辺のパレスティナ地方を漠然とさす地理的呼称で、旧約聖書やエジプトの碑文などにも出てくるらしい(^^;)のですが、これのおかげで、(短絡的と言われても仕方がないのですが)中東問題という現実的な対立・憎悪の再生産が実際に行われる中、それが未然に最小限の段階で食い止められるにはどういう方策があるのか、ということを常日頃から散々議論していた私は、逆に、うまく作者の「意図に」乗ってしまう形で(^^;)、その展開に酔ってしまった気がします。

 「侮蔑」についても、私の問題意識がかなり先走っていたことは間違いありません。小集団(米ソといった「巨頭」ではなく、イスラエルとパレスティナといった小国という次元での「小集団」と思って下さい)相互間においては、「侮蔑(=他集団を区別して自分たちの優越感に浸る)」という感情に固執する限り、善悪を超越して鉄槌が下る、というのは、実は、私自身が国際関係論を学んだ過程で染みついてしまった観念(イデオロギー?)であることを、この場で素直に告白しておきます。ただし、これも、その小集団に対して有効な影響力を行使しうる「大集団」があってこそのものであって、『カナン』の中ではそういったものがあるはずもなく、これはかなり無理がありますね(^^;

 もちろん、これもプレイ当時の主観を正直に書いたものですし、別段撤回する気はないですが(「撤回したい気」がないかと言われると、さすがに恥ずかしいところがいっぱいありますけれど(^^;)、フィクションと割り切って「物語」に酔いたい、という姿勢があったのは確かだったかと。
 他にも、GAOGAO!シリーズのファンの方はまだまだおられると思いますので、私の愚考、ないしはこのご意見に対するご感想等、掲示板などにてお寄せいただければ幸いです。

追伸:
 『Phantom』は、一度はエンディングまで到達しましたが、掲示板で書いたとおり、あまり肌に合わなかったようで、さしてのめり込むこともなく淡々とプレイしておりました。詳細は、過去ログ(番号:511〜542あたり)をごらん下さい。

Ken 拝
2001年3月14日

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