2001年9月の戯れ言


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過去の「戯れ言」

9月30日(日)

 『NAKED BLUE』レビューのために、わざわざ『Canvas』を再インストールした上に恋シナリオまでリプレイ…いったい何をやってんだか(^_^; なにせ、先日80GBのHDDを導入したばかりなので、まだまだスペースには余裕があるわけで、ガンガン来なさい、といった気分。半年も持たないことは確かなのですけれど、何かをプレイするごとに何かをアンインストール、ということは当面必要なさそうですし、これまでは二日に一回は電源を入れていたMOも、ここ一週間はほとんど使っていません。にゃはは。

 この『NAKED BLUE』を起動すると「カクテル・ソフト」のロゴが出ますが、このロゴを見ることももうないのかな。確か昨年発売の某ゲームには、

1997年「Piaキャロットへようこそ!!2」1998年「With You〜みつめていたい〜」

そして、2000年。カクテル・ソフトから新たな伝説が生まれる!

とあったのですが、この「伝説」って何だったの、と思うのは私ぐらいなのでしょうか。

 

 この「戯れ言」をはじめ、ちまちまとレイアウトに手を入れてみました。CSSをちょっといじってみただけなので、また数日後にはガラッと変わるかも知れませんが、こうなってくるとやっぱりデザインセンスというものが如実に反映されてきますね(^_^; ブラウザ間の格差はあまりないようにしているつもりなのですが、Netscape Navigator 4.78では枠の色が妙な具合に出てしまいます。なんでかなぁ。

9月25日(火)

 先週の土曜日、SHEOさんの掲示板でおなじみの方々とのOFF会に参加させていただきました。半年前にもお会いした方が多く、和気藹々とした雰囲気の中で楽しい一時を過ごさせていただきましたが、やっぱり新しいゲームについてほとんど何もやっていない、あーんど、新しい情報をほとんど集めていない、となると、なかなか話題についていけないケースが多かったものです。別に、話題についていくためにゲームをかき集める必要などまったくありませんし、サイト運営にあたっても同様ですが、やっぱり現行のゲーム流通の問題点のうちかなりの部分が、発売直後が売り上げの多くを占めるというひずんだ構造に起因するようにも思えます。

 私がゲームにはじめて手を出した97年前半期には、まだPC-98対応の新作すら(細々ながら)出ている時期でしたから、「古いゲーム=AT互換機ではプレイ不可能なゲーム」という図式がありましたが、現在ではWindows9xの流れがかなり長期に渡って定着していますから、多少古くてもプレイには大きな支障はないでしょう。ですので、「発売日からしばらく経ってプレイ」という姿勢をしばらく取っていこうかな、などと思ったりしております。

9月22日(土)

 同時多発テロに始まる動きは、さまざまな形で波紋を広げておりますね。所詮はゲーム関連サイトですし、政治・軍事関係のサイトでの活発な議論をわざわざここへ移す必要はありませんが多くは語りませんが、なおさら『カナン』のリプレイをしないとなぁ、などと思っていたりします。なによりも、ゲームができる程度の環境にいるということ自体、十分すぎるほどに贅沢な状況にあるわけですが。

 

 ある方から、興味深いメールをいただきましたので、以下、その中心部分を転載させていただきます。差出人の方の承諾はいただいておりますが、匿名希望ということでしたので、お名前は明かしません(基本的に「匿名希望だけどサイトに書いてね」といった類のメールは無視させていただきます。当方が転載を打診したためにこうなっただけですので、念のため)。

Kenさんは「主観を出す」ことをまず第一にされておいでですが

「主観」を貫くことが窮屈になる事ってありませんか?

自分にはわからないとか、そうでなくても理解したくもないとか

そういうことを書くのって、理由を付けても大変なことだと思います。

影響力とかもそうですが、それ以前の問題として、

「自分が人と違う」ことを宣言するのって度胸がいりますから。

 

同意してくれる人がいてほっとする安心感覚と、

自分の筋を通すことによる自律(?)感覚と、

そのバランスを取っていくことなど、私には無理です。

いや、短期的にはできるかも知れませんが、

数年にわたってサイトをつづけるなんて芸は私にはありません。

 確かに、私も「他にこういう意見があるか」ということは絶えず気になりますし、同調者がいると安心し、そうでない場合には孤独感を覚えることだってあります。しかし、書くことで自分の考えを「言語によって論理化」すること、そして言語という「他者と共通の土俵の上に提出」することで、その行為が有意義なものになっていると考えているからこそ、こういったサイト運営が続いているわけです。労力に比して得るものがないと考えれば、すっぱりやめているでしょう。

 

 翻って、「作品をレビューする立場」であれば、まず「レビューする/しない」という選択肢が確実にあるわけです。私の場合も、コンプリートする、あるいは今後もうプレイすることがないであろうという状態になりながら、どうしてもレビューを書けないゲームというものが、これまでもありましたし、今後もあるでしょう。もちろん、レビューを「書く」ことを職としているのであれば、何はともあれでっちあげなくてはいけませんし、そういう意味で仕事を選べないのがプロというものでしょうが、べつだんプロでも何でもなく単なる趣味の一環としてやっている以上、そんな無理をする義理はありません。まぁ、それなりの意地もありますから、プレイしたゲームは極力書くようにしてはいますけれど。

 そして、この「どうしても書けない」理由としては、まず間違いなく「ゲームの中で示されている作品性を評価できない」ことが挙げられます(レビューを書く際には、私は「本質」などというものは見ないようにしていますので)が、これをさらに見てみると、(1)難解である、あるいは難解さを解き明かすことに面白みを見いだせない。もしくは、(2)自分の価値観や倫理観に照らして、許容限度を超えた不快感を覚え、それ以上に踏み込んだプレイが不可能である。このいずれかのように思えます。

 (2)の例はさほど多くありませんし、そういっぱい出てくることもないでしょうが(私の場合は『光を…』がこれに相当しました)、(1)のようなケースは結構ありそうに思えます。最近は「鬱ゲー」が一種の流行だそうで、それであれば人間の心理面をマイナス方向に探り(えぐり?)あてていくといった「面倒な」作業がどうしても必要になってくるわけですが、それが楽しく思えないケースはままあるでしょう。また、作品の中で提示されているテーマ性を剔出・分析する場合も、論理展開や理論の援用などでかなりの逡巡を余儀なくされ、結局「めんどくせー」となる場合もあります。あるいは単純に、「難解(あるいは複雑)だし考えるのもたるいからいいや」というケースもあるでしょう。しかし、こういったときに、無理に背伸びをして、「難解なものをあたかも「わかったような顔をして」語る」、あるいは「難解なものに触れ、そして自分が理解できる見解に触れた時点で、自分も同様の思考を「した」と思いこんで語る」のは、私は大嫌いなので、厳に慎むように心がけています(心がけてはいますが、そうなりがちであることも認めざるを得ません)。

 

 わからないものをわからない、とすること自体は、別に問題があるとは思いません。作品に対する姿勢には、積極的な思考が絶対的に求められる、などというのは、クリエイター側の押しつけに他なりません。第一、「評価」する以上、そこでの感覚は個別の判断に委ねられてしかるべきです。だからこそ私も、レビューの中で断定調を用いることは注意深く避け、そして安易な同調を求めないように気をつけているわけです(それでも、断言するのって気持ちがいいので、ついついやってしまいがちなのですけれど…)。

 しかしながら、「わからない」ことを肯ぜず、それを自分に受容可能な形で翻訳・変質させ、結果として牽強付会以外の何物でもないのに「俺様はわかったぞ」という姿勢を取るというケースは、(ゲームレビューにおいてはともかく)ディープな趣味の世界では決して珍しいことではありません。いや、趣味に限らず、『資本論』を原文で読んだだけでマルクスの思想を理解したとわめく奴とか、そんなのは掃いて捨てるほどいるわけで、スノッブに歪んだ「背伸び」がどれだけ醜悪なものかは、今さら説明する必要もないことでしょう。

 そしてまた、こういった行動は、わからないものに対する「評価」に、自分の判断を委ね、記号化した上で埋没させていくようなものでしょう。それが積もり積もれば、判断停止と耐性順応へと行き着くのは必至です。知ろうと努力することは恰好いいでしょうが、知っていると見せかけることが格好悪いのは、おそらくここに原因がありましょう。

 「語る」ことを積み重ねて「物語」を作り上げ、その「物語」をさらに乗り越えていく、その動きの集積こそが、あらたなる「語り」を不断に生み出して行くわけです。まず「物語」ありき、では、それは「語り」ではなく「騙り」である、というのは、言い過ぎでしょうか。

 

 ただ、以前にも書いたことですが、堅苦しく考えていると何も書けなくなるので、

「多様性を尊重し、見解の絶対化には臆病なほどに慎重である」

「安易な「人それぞれ」論に走らず、見解の異同をつき合わせる労をいとわない」

という程度のことさえ押さえておけば、あとはどうにでもなることでしょう。論拠を明示していればそれで良い、といった論に、得てして浅薄な印象が伴いがちであるのは、結局こういった点の欠落が大きいのではないかと。

9月16日(月)

 トップページの壁紙をカットするなど、かなりちまちました部分のシェイプアップを行ってみました。攻略データなど、ホームページビルダーで作成して無駄なタグを多く含んでいるソースなどを手直しすると、各ページごとに1割くらいは減量可能…なはずだったのに、「こうすれば見やすいな」なんてやりだすので、結局はほとんどサイズが変わらないというケースもありました(^_^; なにやってんだか。

 また、攻略法の内容については、逐一再検証をすることはありませんが、一応『D+VINE[LUV]』のアイテムリストを上げました。ゲーム中に容易に確認できるデータは書かず、かなりちまちまと手間を必要とするデータのみに絞って書いたので、本当に使いやすいかはちょっとわかりませんが。これから先、攻略関係のデータも再び手を入れていきたいと思います。レビューサイトとしてはなんとか現役かも知れませんが(でも今月に入ってから何も書いてない…さっさとヤろうぜ俺)、攻略サイトとしては長期休眠中というのは、管理人として情けないですから(^^; 例によって「無理のない範囲で」というマクラコトバがつきますけれど。

9月10日(月)

 先日のBIOSがらみのトラブルは、いったんBIOS設定を初期化して別バージョンで再書き換えしたところ、正常に戻りました。やれやれ。

 で、ついに、ハードディスクを増設いたしました。これまでの総容量が15GB以下だったところへ、一気に80GBが加わると、いくらでもデータが押し込められるような錯覚に陥ります。おまけに7200回転という未知の領域。VIAチップ搭載のAMD対応ボード(安かったから買ったというシロモノ)はIDEに不安アリ、という情報もあったのですが、ひとまずは無事に認識し、正常に動いてくれております。もっとも、ATA100については、完全に宝の持ち腐れ状態ですが、動画編集するわけじゃなし、使うのもせいぜい二次元画像やムービー再生程度なので、これでも十分。ただ、非IBM製のHDDというせいか、裸のままでもかなり賑やかで、さらに空冷ファンをつけると(←やたらと熱くなるのです)なかなか騒々しくなるのが難点といえば難点でしょうか。80GMのものと800MBのブツとが仲良く並んでいるのも微笑ましいモノがありますが、後者は読込についてはMOより体感速度が落ちるというシロモノなので、もはや完全にテンポラリ領域に特化することになりそうです。

 もっとも、就職が決まって資金調達の目処がたったわけではなく、MOをガシャガシャ頻繁に入れ替えているのを見た父親が哀れに思って買ってくれた(正確には、二万円出してくれた)というのが実状です。普通の学生であれば「出世払い」となるのでしょうが、そもそも出世などという言葉とは無縁という私のこと、むしろこの歳になって親に同情されるという事態そのものが情けない限りでもありますから、少なくとも継続的な収入が見込める程度に事態が好転しない限り、ゲームを買うことはしばらくないでしょう。幸か不幸か積みゲーはまだまだあるので(DOSの未着手ゲームがまだ大量に…)時間と気力さえあればゲームをプレイしたりレビューを書いたりすることは可能ですが。まずは、二万円を還元できる程度のことをしないと、と思っております。

 時間的・精神的に「ゲームができる状態ではない」となる可能性もありますが、今のところはのほほんモード(開き直りモード?)なので、たぶん大丈夫です。

 自宅でできるバイトを確保したので、失業状態が長期化しても大丈夫…って、いいのか、本当に(^^;

 

 サイトの空き容量が、ついにあと1MB強に迫ってきましたので、攻略ページを別サイトに移転しようか、などと考え中です。もっとも、こちらの更新は完全にほったらかしなのですけれど(^^;) ちなみに、レビューページだけでみれば、全部で1.92MB(ローカルディスク上で確認)だけで、攻略になると3.61MBに相成ります。複数ページからなるものについては直置きを廃止するのも一つの手かな。

9月3日(月)

 昨日書いた『同級生2』ですが、2日の時点で、美沙・桜子・愛美・いずみ・こずえ・友美・久美子・みのりをクリアしています。いったいいつ終わることやら(^^;

 

 Xゲームのプレイヤーであれば、黒磯の一件によって「この世界」がヤバい状況になりつつあることは先刻ご承知でしょう。犯罪に走る人間の心理や動機といったことについてはコメントのしようがありませんし、「この世界」にある「理」を知ろうともしない硬い方々に対しては、正直なところあまり関わりたくないのも確かなのですが、私自身、今回の事件に対して、思うところはいろいろあります。もっとも、草稿自体は前に書いていたのですが、考え出すとヤバい話が大量に出てくるので、そういうところを消したり編集したりあれやこれや、とやっているうちに、だんだん収拾がつかなくなってきたので、全然まとまっていない状態であるまま、覚え書き程度のことを書いてみました(^^;) 「過激な議論」ではないと「自分では」思っておりますが、果たしてどんなもんかいな。

 

 今回の「事件」について語られる中では、「虚構と現実との区別がつかなくなった」という文脈がかなり多く見受けられました。安易な一般化が禁物であることは言うまでもありませんが(←いったい何回書いたかね、この表現…)、少なくとも全否定できない程度の妥当性はありましょう。ゲーム内の「世界」をそのまま現実に適用する程度にまでイってしまう、とはいかないまでも、「虚構」における「現実」を「居心地の良い空間」として没入することは、正真正銘の現実におけるノイズを排除することと同じですから、結局は「現実」の「純粋化」である、とも言えそうに思えます。

 ここ最近、「Pure」という形容詞がタイトルに付されたゲームが、やたらと多くリリースされていますが、この現象は、かかる「無邪気」へのまったき憧憬が潜在していること、裏返せば「純粋さ」に憧れ、それらを求めようと群がるというマス=プレイヤーの「動向」を暗示しているような気もします。このあたりの詳細は、GUSTAVさんの「真珠の小箱」2000年9月14日分に譲りますが、ここにおいて生じる「無邪気さ」「純粋さ」を突き詰めるという姿勢がラディカルになれば、社会への対応を絶つしかなくなるのは、間違いありません。

 

 思い起こせば、私がPCゲームに初めて触れた1997年春ごろ、すでに一般のマスメディアにおいても、こういった「虚構と現実との区別がつかない」という現象は取り上げられていました。まだゲームともネットとも無関係だったころの私の日記(ワープロソフトに慣れるために毎日つけていたものです)には、こんな記述がありました。そのまま転載します。校正等を行っていないので読みにくいところもありますが、ご了承下さい。

 テレビのインタヴューで「恋人はシオリちゃんだ」という男もいる。シオリ、それはゲーム中のヒロインの名前だそうな。夢を見ているといえば聞こえはいいが、「夢を見る」ことを公言することで、自分の中で、自己暗示を、かけるという面があるのだろう。すなわち、表明という手段によって「外部からの刷り込み」を「自発的に」行っている、ということか。一方、ゲームが出すヒロインは、「夢を見せる」けれど、見せて見せっぱなしなのだろう。その「見せる」技術は競われるだろうけれど、「見せた夢を考え直させる」ことはないのだろう。もちろん、マイナス面を針小棒大的に見ての話と考えるべきかも知れない。でも、「打ち込むこと」に対して「美しさ」「かっこう良さ」を感じさせることが多いのに、ことゲームにのめりこんでいる人間に対しては、そういったものをなかなか感じることができないのは、やはり「考え直させる」という部分が欠落しているからではないのか。

 もちろん、「知らない者の偏見」という要素が、上記のテキストには少なからず含まれています。しかし、これを読み直してみると、実は私のこういった「直感」は、単に「それを押さえ込めるだけの「反証」たるゲームに出会えてきた」というだけの理由で「封じ込められてきた」に過ぎないのではないか、と思えます。

 

 最近のゲームというものは、社会の風当たりが強くなることに伴う「規制強化」によって、対象をかなり限定させていることは間違いありません。表記上「高校生」というものが姿を消していることは広く知られていますが、そういった「用語の自粛」にとどまらず、社会的に「論議を呼んで当然・広範な議論が行われてしかるべき話題」に関しては、「触れないことにしよう」といった感じがしてならないのです。

 特に、最近まったく見ないと思えるのが、「実際に起こった」第二次世界大戦において日本が関与した戦争(これの表現も立場によって異なってきますが、以下「第二次大戦」と表記します)に関する記述です。私がプレイしたゲームの数はかなりありますが、これをマトモに取り込んでいるのは『きゃんきゃんバニー・エクストラ』(カクテル・ソフト)のみで、またある形で「戦争」の生臭さを感じさせているのが『卒業写真2』(JANIS)および『女郎蜘蛛』(PIL)ぐらいでしょう。いずれも、発売は97年初頭以前と、今となってはかなり古いゲームとなっており、また後継作品が出ていないシロモノとなっておりますが、いずれにせよ、社会の中において「背けたくなる事実」を敢えて取り上げています。その取り上げ方が当を得たものかどうか、また史実として妥当かどうかは、この際目をつぶるとしましょう。しかし、「シリアスなシーン」における決め球としての「事実」の強烈さは、これらのゲームの中では確実に有用な素材として適用されていますし、テーマとして、あるいは(ストーリー上の)演出要素として強力なものであることは間違いありません。にもかかわらず、現在、手法として使われることはなくなっているように見えます。

 なるほど、具体的な犯罪などによって、その手法に近いような「強烈な事実」は使いにくくなる、というケースはあり得ましょう(新潟の監禁事件だのバスジャックだの、「ネタ」にできそうな事実はいくらもありますから)。しかし、「事件」に対する一過的な興味関心に留まらない題材に対しては、だんだんと「腰が引けている」とでもいうべき状況になっているように思えてなりません。

 

 こういった「自主規制」によって「仮想世界の人工性」が高まれば、それは行き着くところ「夢を見せる」だけの方向に走ることにつながりましょう。もちろん、多数の健全な人間がプレイする分には、夢を自分の内部で相対化することができるはずですが、「そうでない」人間にとって、麻薬的な役割を担う方向に走る可能性も高くなる、とは言えましょう。

 単純に「現代社会の病理」と「ゲームプレイヤー世界の問題点」とをリンクさせるべきではありません。しかし、市場原理が(かなりの歪みを含みつつも)不断に働いている以上、プレイヤーサイドの意識がメーカーの意識を動かすこともまた確かです。結局、今回の犯罪とは何の関係もないプレイヤーにとっても、現状以上のものを求めるのであれば、縮小再生産の繰り返し世界では満足しない、といった程度の気持ちは持っておくべきでしょう。

9月2日(日)

 昨日の本欄で書いた「往年の名作」とは、実は『同級生2』(elf)のことです。これまで、このゲームについてはまったく触れてきませんでしたが(未プレイということを繰り返し書いてきただけでした)、ちまちまプレイすることで、全15人の攻略対象キャラのうち、7人が終了しております。メインヒロインと目されている唯に手を出していないので、評価できる段階ではない、とはいえるのでしょうが、それ以前の問題として、どうにもこのゲームから「興味深いもの」を引き出すことがまったくできなかったのです。

 これまで高い評価を得、そしてまたさまざまなゲームに多大なる影響を及ぼしてきたことについては、客観的事実として認定しても構わないでしょう。しかし、その「ゲームとしてのスケールの大きさ」ゆえに、後世の作品が手本とするべき要素を随所に持っているわけですが、その結果逆に、各パーツ単位で見た場合、現時点では陳腐なことこの上なくなっているのです。また、各パーツの組み合わせにしても、最近の作品においてはスケール自体が縮小してボリュームが減少しているとはいえ、「使い方」という点で、(『同級生2』の段階では)技術的に未熟という印象は否定できません。今なお語り伝えられるだけの名声を考えれば、当時のゲームの中においては画期的なものであったことは確かなのでしょうが、「ゲーム史」を追求しているわけではない以上、こちらについてはコメントのしようがありません(当時はそもそもPCなど持っていませんでしたし)。

 これはおそらく、その場その場以上の考えを持たずに行動している「主人公」像が、現在まで用意されてきた多種多様な主人公像の中では、非常に曖昧なものになっているからではないかと思われます。「ナンパ」と「恋愛」とを無理に結合させようとした結果、女の子を食べてしまうことと恋心を抱くこととの関係が中途半端になっていることは確実です。昨今の恋愛ゲームでは「告白→恋愛関係深化→肉体関係」というプロセスがあるわけで(ただ、このスピードが急速である場合が一般的ですが)、この「告白」の契機自体は割とテキトーに作られていますが、もともと「彼女が欲しいな」程度の認識からスタートしている場合が大半であり、しかも平均的な主人公はというと、あまり女性に対して慣れていない(ただしHシーンになると途端にテクニシャンに変貌する)ため、「勢い」という言葉で説明づけてしまうことが可能です。しかし、この『同級生2』の主人公の場合、最初から街中にその悪名を轟かせているナンパ野郎なわけで(外道連中の悪名が轟いていないのは、まったくもって不思議の極み)、女の扱いには慣れている以上、女の子の行動に対する的確な反応が、「感情をさほど介さずに」可能であるはずなのに、実際には「鈍感な奴」になるという、妙な齟齬が生じるわけです。また、手慣れているのなら、逆にヒロインに対する配慮などであれこれ考えても当然なのですが、この主人公にはそういった気配が皆無であることも、また現在の「主人公像」から見れば、不思議な存在といえましょう。

 そういう設定の主人公が悪い、というのではありません。また、主人公の性格設定と行動および環境とのギャップが致命的であるとも思いません(相当大きな問題となっているとは思いますが)。しかし、内省過多タイプの主人公が多い現状を見れば、行動規範がいわば「神の視点」で措定されているような主人公の動きは、この作品が発売された当時に比べ、不自然さを増していることは確かだと考えます。

 

 タチの悪いことに、私はこのゲームを露骨に模倣している『卒業写真2(DOS版)』(JANIS)というゲームを大いに気に入ってしまっているため、それの延長(ないしは遡及)するという視点で見てしまいがちであるという点も挙げておきます。マップ移動方式の出会い形ナンパゲームというにとどまらず、BGMの三パターン切り替えとか、女教師の担当科目が美術とか、主人公以外の野郎キャラが4人いて1人が好漢3人がクソだとか、隠しキャラの取り扱いとか、「ほらほらマネましたよ」と開き直りのようなものさえ感じるほど共通点が多い多い。

 グラフィックの塗りはショボイし(原画は好みの差でしょう)、テキストはひどいし(以前ここで書いた気も)と、後発作とは思えない欠陥が多かったのも事実で、あまり一般的にはその名を残していないようですが(Windows版の移植がひどすぎたというのも一因でしょうが)、主人公の心境変化、そしてヒロインの心理だけでなく、その周囲のキャラクターの語り口をも巧みに織り交ぜた展開における魅力の大きさは、単に「同級生2=冬休み=短期決戦・余裕なし」「卒業写真2=夏休み=長期計画・余裕あり」という差異に起因するにとどまるものではありません。むしろ、形式的には反論の余地を許さないほどの模倣を行いながら、それを乗り越えてしまえるだけの中身をつめこんだというクリエイターの意気にこそ、私は大いなる好感を抱いております。

 マイナーゲームに対する肩入れが多分に入っている点については否定できませんが、Windowsからスタートしてある程度の数のゲームに接してきたプレイヤーにとっては、『卒業写真2(DOS版)』は、「これを超えるものがないという中身を確実に持っている」ゲームである、と、再認識した次第です。

 

 逆にいえば、このように『卒業写真2(DOS版)』が評価の下敷きになってしまっている以上、私には『同級生2』のレビューは書けそうにないですし、また無理に書いても、それにはあまり意味がなさそうに思えます。

 ですので、レビューを書かないことを前提に、のんびり続けていきまする。それほど楽しいわけではなく感動したことも皆無ですが(ムカついたことは何度もありましたが)、まだ挫折はしておりませんので。

 しかし、英語のサブタイトル(?)表記「Here is the only your springtime of life.」って何(^^;

9月1日(土)

 週末に体を休め…とならずに、平日にスーツを着ているとどうしても週末は外出してしまうのが私の傾向のようで、この週末も「積みゲー消化三昧」とはいきそうにありません(^_^; 団地住まいということもあってか、どうせ時間が取れるのなら外に出てリフレッシュしよう、と思う次第で。

 

 いくつかの古いDOSゲームなどをちまちまとやっているのですが、GAOGAOシリーズと去年出会ったときのようなインパクトを受けることはどうもないようで、「過去の実績」を博物館で見学しているような気にさえなることも多いですね。一つの作品がもっているボリューム自体は現在のものと比較しても何ら遜色ない、いなそれを凌ぐものも多いのですが、単に「古い」に留まらず、設定や手法が消化されつくしてしまった結果なのでしょう。

 もっとも、「古いゲーム」といえども、Windowsゲームも今となっては「古さ」を感じさせるものが増えている以上、やはり「時代」というものは確実にあるのでしょう。1997年(NECがPC-98から転向した年)にこの種のゲームを初めて手に取った私にとって、「古いゲーム」とは「DOSゲーム」であり「AT互換機では遊べないゲーム」だったのですが。

 さらに、「往年の名作」と現在でも評されるゲームをプレイしても、「どこがやねん」といった程度の印象しか持てないゲームが多いこともまた、いろいろ考えさせられるものがあります。私の嗜好がやや特殊であるといってしまえばそれまでですが、「自分の嗜好がごくごく平均的である」という人はいないでしょうし、そもそも「平均」の基準設定など無理に決まっています。むしろ、安易にスタンダードを設定してそれを判断の軸とすることをせずに、バラツキの存在を前提とし、そのバラツキを否定しないことが大事なのでしょう。そのためにも、レビューサイト運営者としてだけでなく、一ネットワーカーとして、安易に「われわれ」概念を振りかざすという愚だけは避けたいものです。



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