2002年6月の戯れ言


前の月へ 次の月へ
過去の「戯れ言」

6月26日(水)

 メールのお返事やらなにやらをためまくっておりましたが、一応25日午前1時までに確認できたぶんについてはお返事できました。これぐらいマメにやらないといけないのですけれど、時間ができれば寝るという日々なもので(^^;

 先週末には『女郎蜘蛛 〜真伝〜』(PIL)を買ってきました。もっとも土日も例によってお仕事だったので、買うには買ったものの、まだ3日目までしか進んでいないのですが、まずは「声つき」になったことの違和感がまったくなかったことをあげておきましょう。雰囲気が良い作品が、リニューアルにあたって声がつくとなると期待よりも不安が先に立つものですが、こと『女郎蜘蛛』については、この点は杞憂に終わったといえそうです。過去を振り返れば、『夢幻夜想曲』(アプリコット)も音声がついてもうまくいきましたし、要は演技の方法と、テキストがそれに適合するかどうかなのでしょう。ひとまず、伊佐治がいいっス(^^;;;

 

 ある人に送ったメールの中でちらっと書いたのですが、私が継続的にレビューなり何なりを書いている理由というのは、別段これといったものがあるのではなく、単に、ゲームというものを楽しむ手法の1つとして「書く」ことを据えているに過ぎません。言葉を換えれば、自分が抱いた感情を言語化して定め、目に見える形で確認することによって、はじめて「感じたこと」を「自分の感情」にすることができている、と思います。自分の感情は他人にはわからない、と言ってしまえばそれはそのとおりですが、しかし自分にだって自分の感情が把握できるはずもありません。その「自分の感情」を固定化することによって、「感じた」ことを自分の中で認め、そして、ゲームをプレイする自分と感情をもつ自分とをつなげているわけです。要は、「書く」ことが、ゲームと自分とをつなぐ媒介となる作業となっている、と言えましょう。

 批評とは、客体に対して言葉を付与する行為にほかならないのは言うまでもありませんが、逆に、主体たる自分にも言葉を与えるものになっていることを、改めて思ったしだいです。

6月17日(月)

 ダウンロードしてそのままだった『Wind』(minori)の体験版をプレイしました。すでに製品が発売されてかなり間がたっているので「今さら」という言葉がふさわしいのでしょうが、結局「この後にどういう展開が期待できるのか」について、悪い意味でさっぱり見当がつきませんでした。各キャラクターの顔見せという点においてでさえ消化不良気味でしたが、それだけでなく、再会した娘以外との展開がどのようになるのか、また妹や悪友といった「微妙な立場」がどのように設定されているのか、さっぱり見当がつきません。立ちCGと一枚絵とのクオリティの差が歴然としているのはまだしも、「楽しさ」で引っ張るというより、ひととおりの設定を説明したら次の段階に移っていくのではないか、と勘ぐらせるような締め方になっています。

 このゲームのデモが秀逸であることは以前にも書きましたが、そのときに感じた「動き」がまったく感じられませんでした。むしろ静的な関係が強調されているようにさえ感じたこの体験版から、本編がどのようなものであるかを類推するのは割と難しそうです。

 もちろん、私は本編をプレイしていない(買ってもいない)ので、このゲームがどの程度のクオリティを持っているのかはわかりません。ただし、この体験版をプレイしても、買おうという気にはなりませんでした。

 実際には、頒布の際のゴタゴタで話題になった印象も非常に強いんですけどね、この体験版(^^;)

 

 先日「正しい」ことについて書いたところ、いくつかのご意見をいただきました。いろいろと参考になりましたが、それらのご意見を拝見していくと、サイトに求められるものは何か、というものにやはり突き当たります。結局、自分の思ったことをベースとしつつ、見ている人が何かを得られる契機となればいい、という姿勢で良いという点については、現状のままでいいと思っています。なぜかというと理由は実に単純で、私が「良いサイトに出会えた」あるいは「良い話し相手が得られた」というケースは、「自分が何かを得られた場合」だから、というもので、いうなれば自分を尺度としての判定にほかならないのですけれど、あくまでも一個人の制作するサイトである以上、判断主体である自分を見てさえいればいいので、これでいいと考えます。

 しかし、ゲームをプレイしてレビューするという過程では、「作品」が当然のように媒介となるわけで、そこにおいて「制作者」と「プレイヤー」との関係が重要になってきます。そしてまたこの両者の関係は、そのまま「ゲーム」を軸とした「世界」を作り上げるものにもつながるだけに、言葉をもって語る立場の人間は、無邪気なままで「自分の立場を是とする」ことはできません。これは、べつだんゲームだけに限定される話ではなく、ある作品を批評する(いや、より広義に「語る」といってもよいでしょう)際には必ず必要になってくるものです。

 具体的に言えば、作品を語る際には、それを作った存在としての作者を考えるのはいいのですが、実在するある特定の人物ないしはグループを「作者」としてとらえ、そこから演繹的に「作品」を語るのは、すでに作品に対する「語り」たり得ていないと言えます。「ある作品」と「ある人物」とを等号で結ぶのはわかりやすいのですが、その単純化がもたらす視線の硬直化は否めません。

 これは、作者の側から見ても同じこと。浅田彰氏の物言いを借りると、

言うまでもなく、作家は本質的に孤独でなければいけない。最近のジャーナリズムでの批評家の発言など傲然と無視し、ただ必要なことだけを自分の中にそっとしまいこんで、誰もが忘れた頃にまったく別の形で出してくるのでなければならない。

ということになります。

 

 しかし、先日書いたとおり、なんにでも「正解」を求める論が少なくありません。あまつさえ制作者の表明を「情報公開」と同列と扱うがごとき論を見ていると、それは「作る」という営為をあまりにも軽く見て、「作る」ことを「楽しむ」ことの単なる延長上に置いているとしか思えません。それは、とどのつまり「消費者」の無責任論に過ぎず、それを適用することによってクリエイティブな仕事からプロフェッショナリズムをはぎ取るものに他なりません。

 例えば、おそらくシナリオのクオリティで勝負したと思われるゲームにおいて、そのシナリオがなっていなかったものを作った場合など、シナリオライターの姿勢が問われるでしょうし、私もそういうことはしょっちゅう書いています。しかし、プレイヤーがライターに対して「過剰な要求」をすることが少なくないのも確かです。これまた使い古されたパターンですが、作品執筆に挑みつつも結果が出ない人に対して、幅広い読書を求めることが往々にしてありますが、何を読んで感銘を受けるかは人によって異なりましょう。以前誰だったか「ドストエフスキーも読んでいないのに人生について語るなどおこがましい」という言を吐いた人物がいましたが、それは単にその人物が自己の経験を賛美してそれを尺度にしか見ていないことの証です。これと同様のことが、ゲームに対する見解の表明においても濫用されているのは日常茶飯事です。ゲームがエンターテインメントである以上、著名なゲームを丹念に研究するのは当然のことですし、したがって『同級生』や『To Heart』や『ONE』が「相手が意識していることを前提とする」ことは大きな問題はないのかもしれません。しかし、それらを「絶対的な尺度」とし、それらとの差分においてのみ「見解」を明確にしていることが少なくないのも事実です。

 「批評」という行為にはアマチュアもプロフェッショナルもないでしょうが(文責の軽重の差はもちろんありますが、それはこの際関係ありません)、「作る」側がプロであるのならば、レビューサイトの物言いに対していちいち反応したり、あまつさえその前に頭を垂れたりするのは邪道以外の何ものでもないでしょう。もちろん、レビューサイトにおいて出された意見や見解に対し、自分の中に埋め込まれた思考回路を再点検し結果を吟味し直すということは大切で、またそういう機会は(べつだんゲームに限らず)貴重なものです。しかし、それらは「制作者として堂々と公開の場で表明する」ものかどうか、私は少なからず疑問に思っています。

 自家撞着といわれればそれまでかも知れません。しかし、Webにおける一介のレビューサイトとして、「顔色をうかがわれるような存在にはなりたくない」と思っています。自分で稼いだ金でゲームを買ってプレイしている以上、それ相応のものを求めている、というだけなのですから。

6月10日(月)

 この晩は、サッカーW杯に驚喜していた方が多かったようですが(帰りの電車の中がうるさかったのなんの…)、私はご多分に漏れずその時間帯も職場でございました。しくしく。もっとも、朝から晩まで働いていたわけではなく、今日は午後からの仕事だったので、少し空いた間を使って『AS 〜エンジェリックセレナーデ〜』のレビューを一気に書いてしまいました。すでに月イチレビュー状態となって久しいのですが、これが精一杯のペースとなっているのはなんとも情けないものがありますけれど、できる範囲で更新していきます。

6月9日(日)

 この1週間は、会社に泊まるだの徹夜だの、帰宅できても寝るだけで精一杯という日が多かったため、サイト更新どころではありませんでした。何とかPCを起動しても、BIOSをアップデートするとPCIスロットに挿したすべての拡張カードが認識されなくなるという状態。モデムはもう使わないので取り外しましたが、それ以外はガシガシとスロットを入れ替えれば何とかなりました。まあ、モデム以外のカードはサウンドとSCSIなので、前者はオンボード音源で、後者はSCSI←→USB2.0変換アダプタを使えば何とかしのぐことはできますが、どうも気持ちがよくありませんでした。

 それでも、この土曜日は実働6時間だけで帰宅できたので、ひとまず「語るね、俺」の『TALK to TALK』に大幅に加筆し、ひとまずこれで正式版としました。みさきの記述がずいぶんと少なくなっていますが、リプレイするのが面倒だったので(苦笑) 樹里・一瑠・素直の3人ならまだいいんですが。

 

 ネット上でさまざまな議論が起きるのは当然のことですが、それがしばしばエスカレートして、自分の主張の正当性を強く語るようになることがあります。こういう場合、往々にして頭に血が上っているだけで、当事者も実際には「長期化させるのは気まずい」という認識はもっているケースが多いでしょう(あからさまにケンカ腰になっている場合はまた別ですが)。

 しかし、「私は間違っていない/君は間違っている」といった論法は、一言でいってしまえば、不毛なことこのうえありません。自分の「正しさ」をアピールして、果たしてその後になにか得られるものがあるのかというと、実際にはほとんど何も残らず、むしろその際の言動が示す醜態が嘲笑の的になるのがオチです。

 以前、ある人とメールでやり取りしていたとき、「正しさ」にこだわる人というのは、「世界が正解が決する枠内のみで形成されていることを前提としているものだ」という見解に触れたことがあります。私はどちらかといえば、「世界が正解を決定しうるものだということを前提に組み立てている」のでは、と思いますが、いずれにせよ、そういう「世界」の狭苦しさ・独善さは、決して発展していくことのない空間でありましょう。

 本当に必要なのは、正しいかどうかではなく、過程で得られたものを検討すること、そして結果として出たものを吟味することでしょう。そこに「正」の概念を持ち込むことは、結果判定の合理性を著しく害することにほかなりません。

 もっとゆるやかに、そして「正しさからの逸脱を排除しない」ことが、いかなる形であれ、コミュニケーションに活気をもたらすものだといえましょう。

 もちろん、自分の「正しさ」にこだわらないといけない場面は、現実としてあり得ますが、そんなケースはそう頻繁にあるとは思えません。まして、ネット上での論戦が「自分のアイデンティティに直接影響を及ぼす」ことは考えにくいですし(ここには異論があるかと思いますが、少なくともその人の生き死にに響く可能性は極めて低いでしょう)、そういう「本来であれば軽い舞台」において「正しさ」を乱発する人は、自分を「正しい」と思っていないと論を出せない人なのではないか、そういう気がしてなりません。

6月2日(日)

 ここ数ヶ月、私よりも先輩にあたるサイトがどんどん撤退していくようで、さびしい限りです。麦星さんの「美少女ゲーム観測室」が先月末をもって更新を終了されたほか、そとみち.さんも掲示板停止、SHEOさんのサイトも更新停止状態が続いています。世代的には大きい差があるわけではなく、こういったサイトが消えていくのは、管理人の個人的な事情もさることながら、ゲーム市場やネット参加者の層の変遷も見過ごせないような気もします。

 「楽しさ」を追求する方法はさまざまですが、趣味という、かなり不安定な欲求のもとに成立している行動の場合、それを枠にはめることによって逆に息苦しさが出てくることは珍しくありません。そういう「不自然さ」にとらわれないかぎりで、のんびりとやっていければいいな、と思います。

 さて、6月発売のゲームは、というと、『闇色の童話』(キャンドル)が延びたのが順当と言えば順当(汗)で、残るはやはり『女郎蜘蛛 〜真伝〜』(PIL)。ただし、ここ数週間のような多忙な生活がまだしばらく続きそうなので、何も買わずに過ごすことになる可能性もあります。ゲームは「プレイする」ために買うのであって、「買う」ことが目的ではないのですから、発売直後でなければ入手が困難になるということにならないかぎり、すぐに手を出すということはなくなりそうな感じです。

 このサイトについては、まず『T3』の「語るね、俺」を形にすることを先に、ついでいくつか要望のあった攻略データの再確認を行っていきます。今日は、新しいブラウザ(Opera6.03、Netscape7PR1)での確認が精一杯でした。



前の月へ 次の月へ
過去の「戯れ言」

[トップページへ]