2002年8月の戯れ言


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過去の「戯れ言」

8月27日(火)

 このサイトで「読者」として想定されているのはどういう方ですか、というメールを数通いただいております。いまだに個別のお返事はできておらず(溜まっちゃっています……本当にすいません)、こういう形で「概括的なお返事」にならざるを得ないのが残念ですが、サイトの基盤にかかわることですので、まとめてお返事させていただきます。

 ゲームをプレイすることが趣味になっている人を読者層としてはいますが、それ以上は特に考えていません。もちろん、テキストをベースとしているサイトである以上、テキストを読むことをいとわない人を対象にしてはおりますが、単に「読むのが好きじゃない」という方はもともとこういうサイトにはいつかないでしょうし、これは問題にする必要はないでしょう。

 そうすると、どのような方がうちのサイトの平均的な読者層なのかということになりますが、これは答えようがありません。もちろん、サイトを実際にご覧になっておいでの方々を具体的に把握できていないという面もありますが、それだけでなく、「読者」というものを「階層」として考えること自体に、あまり積極的な意味を見いだせないのです。

 これは、特に小説などでより顕著になるでしょうが、平均的な「読者」というものが「存在する」と考えることは、実態ある「読む者」を隠してしまうことになりかねないからです。「読者」は、対象となるテクストの解釈の差異によって、常に(いわば微分的に)差異化し続ける存在です。「読者」なる階層が無条件に「ある」とされれば、その時点で多様な差異ははなはだ暴力的に統一されてきます。そのようにして「読者」を見ることによって当サイトが生み出しうるダイナミクスを止めてしまう理由は、私にはありません。

 こういった理由で、私は、特に「読者」を想定することなく、自分が思ったことを言葉に落とし、それが自分なりにどのような反響を起こしうるかを比較的単純に計算しているだけのことです。誰が読んでも、そこにあるテクストの正体は多様に変貌する、そんなものになっていればいいな、と思っています。

#もちろん、表象としての「読者」という形象の意味を否定するわけではありませんので、念のため。

8月24日(土)

 今月発売となったゲームは、一応『闇色の童話』(キャンドル)を買うだけ買ったものの、果たしていつ手をつけられるやら心許ない状態となっています(^^;) これ以外で気にかかっているものとしては『Blue-Sky-Blue【s】-空を舞う翼-』(emu)がありますが、初回限定のサウンドトラック&ドラマCD同梱版が「DVD版のみ」というのが面白くないところ。もちろん通常版のCD-ROM版を買えばいいのでしょうが、このブランドの作品は個人的に思い入れもあるので、やはり入手はしたいし、かといって現実問題としてDVD-ROMのスペースはない(ケース内はもういっぱい、ケース周りにはCD-R/RWが2つ、MOが1つ、カードリーダーが1つあって置き場などあるはずない)、さりとて現役のCD-ROMドライブをリプレースする気にもなれない、などなど、頭を抱えています。ある特定のゲームのためだけにハードウェアを買い換えたということはこれまでなかったのですが、果たしてどうなることやら。ちょっと心が揺らいでいます(^^;

 シナリオ的には、前半と後半とのコントラストの利いた展開をベースに、キャラクターが抱えていた問題をその「物語」の中で剔出しつつ消化/昇華していく、というスタイルとなるのでしょうが、設定がかなりエグいだけに、どのようなストーリーになるのか、ひとまず楽しみではあります。9月にひとまず買ってしまうか、あるいはCD-ROM版まで待つか。そのときになってみないとわかりませんが、一応『ネジレ』(えん)についで注目しています。

8月22日(木)

 当サイト「X-GAME STATION」も、おかげさまで本日をもって3周年を迎えました。管理人のモチベーションをこれだけ維持できたのは、このページをご覧いただいたみなさまの暖かい反応があってのことです。本当にありがとうございます。現状を冷静に観察すれば、コンテンツの充実を従来のペースで維持するのはなかなか難しいのですが、可能な範囲で続けて参りますので、これからもよろしくお願いいたします。

 

 akitoさんに勧めたこともあって(^^;)ちまちまと『書淫、或いは失われた夢の物語。』をリプレイしています。異様に分岐が激しくエンディングも膨大なので、最後のエンディングにたどりつくまでにはまだまだかかりそうですが、やはり「時間をおいてもう一度やってみたいな」と思ったのは間違いではなかったように思えてきました。しかし、いろいろくふうしてもなかなかレビューを書けなかった理由も、ぼんやりとながら見えてきた気がします(^^;

8月21日(水)

 またメールのお返事がたまってきました。簡単にお返事できるもの以外については、数日程度の猶予をいただければ幸いです。

 さて、『Wind』の全エンディングを、一応見ました。ひなたエンドでマウスを叩きつけそうになり、わかばエンドでキーボードにヒジ打ちを食らわせたくなり、彩エンドにいたってはディスプレイを破壊したくなりましたが、なんとか踏みとどまりました(^^; ちょっと精神的に荒れ気味なのですが、なんだかみなもってこれらのシナリオでは、当て馬というかなんというか……。素直で純真無垢ということを「タブラ・ラサ」と扱っているといった感じで、可哀想に思えてきました。

 数少ない常識人・望に至っては、「当初は攻略対象外だったけど、そこそこキャラが立ったから急遽攻略対象にした」という印象がぬぐえません。オープニングムービーでも、攻略対象キャラのうち、彼女だけは顔をハッキリ識別できるシーンが非常に少ない点も残念。Hシーンのシチュエーションはなかなか燃えますが(爆)

 さて、ツッコミどころは山のようにあるんですが………。

 まず1つ。歴史学の方法論って何ですか? 嘘と真実を二項対立で分別するのは、実証主義の段階で済むことであって、それ以上の価値判断に基づく段階において過去の正しい『真実』を、未来へと残すということ(強調カッコKen)というのは、「現在における現実」に適合する形に歴史を「適用する」ことにほかならず、いわゆる「歴史修正主義」に格好の題目を提供する以外に何のメリットもないでしょう(以下、小一時間では済まないほどおじさんを問いつめたくなりますが省略)。

 ………まあそれはともかく、トータルで見た場合、プレイヤーがゲーム中の設定を消化できず、とにかく「ついていくのが精一杯」状態でプレイを余儀なくされる格好になっています。設定が複雑怪奇をきわめてメモ取りが必要、というのならまだともかく、主人公に与えられる情報が短期間にドッと出てくるうえ、個別キャラクターのセリフに説明をゆだねすぎているため、プレイヤーが追いつけないのが致命傷です。だれもかれもが饒舌になって、詳細に解説を施してくれるため、かかっていた霞を取り払うような爽快感がなく、設定という名の知識を一生懸命詰め込んでいくような印象があり、あたかも講義を受けているかのような錯覚に陥ります。

 さらに、各キャラクターに対する主人公の心情描写が皆無なのも問題でしょう。ヒロインがラブラブ光線をストレートに発揮し続ける一方、主人公が徹底的な朴念仁を通しているみなもはまぁ別としていいでしょう。しかし、それ以外のヒロインに対しては、主人公の心理描写がほとんどないままに結ばれていますが、これではあんまり嬉しくありません。彩などいい例で、「彼女のシナリオを見れば全貌がわかるだろう」という期待があったために最後まで進めましたが、「いつの間にオレはこの娘が好きということになってるんだ?」と思いながらプレイさせられてしまいました。これでどうやって萌えろというのでしょうか。

 さらに、「全体をみわたすだけの観察力と洞察力があるキャラ」として、最後の段階で何か踏み込むことができる役を担っているのが紫光院ですが、この役割は勤に任せて彼女を排除した方がストーリー上はよかった気がします。勤の役割が中途半端になっている一方で、紫光院のもつ「強い力」そのものがストーリーに関わってこない不自然さを思えば、かなり損な役回りになっている点が否めません。

 以下、ネタバレなので、文字色と背景色を同一にします。「力」を持つキャラクターという「装置」を備えたゲームには、これまでも『Hello Again』(ACTIVE)や『SenseOff』(otherwise)などがありましたが、これらにおいては、「力」は単なるストーリーの味付け程度のものだったり、あるいは個人同士の運命を変えるための道具であったりしますが、あくまでもそれらは「個人」レベルに留まっていました。しかし『Wind』では、「装置」を個人レベルでなく集団・地域レベルに還元してしまっており、この点も、大きな失敗の原因となっています。本来は、舞台となっている地方都市の「地域」の顔(そこの住民たちからなる「一般的」な表情)が非常に重要な要素になるはずですが、これがまったく見えてきません。「仲良し集団」の中におけるヒューマニズムが、主人公サイドにおける価値観の中核となっていますが、その論理が「集団・地域」が縛られてきた運命を超克したという割には、最終的な問題解決が、「個人間の衝突・説得」という非常に小さい範囲での手法に委ねてしまっています。彩の担ってきた十字架は、主人公が信じるヒューマニズムで救済されるのでしょうか。そんな矮小化した十字架から重みを感じよと言うのは無理な話です。

 伏線の貼り方と展開、そしてキャラクターが担っている背景装置の両面において、大きな欠点を抱えていると感じます。装置を生かそうという考えはうかがえますし、個別のイベントは決して悪くないのですけれど、お世辞にも満足できる内容にはなっていませんでした。

 まだ埋まっていないCGがいくつかありますが、どうしよっかなあ。CD-ROMなしでもプレイできるので、思い出したらまたリプレイするかもしれませんが。

 

 16日の本欄に書いた「戯れ言」の記述が、専門用語を多用していてさっぱりわからない、というメールをいただきました。確かに「抑圧」という表現を説明抜きに用いたのはまずかったという気もしますが、それ以上の説明をするとかえって冗長になってわかりにくいと思ったので…うーん、結局のところ、自分の中で形成している概念を、自分の言葉に消化し切れていないのでしょうね。

 ある書物のキャッチコピーに、こんなんがあります。

「都市民俗学」は存在しない。「常民」は概念ではない。「民俗」など妄想に過ぎない。「伝承」はもはや呪文である。「民俗調査」は自動筆記と化し、研究室はとっくの昔に天使の王国。つまり、おまえ(民俗学)はすでに死んでいる。志もなく、希望もなく、まして、より良い未来を選ぶ心意気さらになく。(一文略)ただ、脳死状態のまま、世紀末の高度消費社会に、およそ不幸な延命を続けるこの国の民俗学。その病いのさまをていねいにほぐし、つづり、かたちにする、身についたことばから再び出発するための、渾身の荒療治。嗚呼、こんな学問に誰がした?!

ここで槍玉に挙げられているのは民俗学ですが、これに限らず、人文科学諸分野に関わる方の多くは、現在こういった煽られ方をした場合に「身に覚えがあるなぁ」と苦笑せざるを得ないように思います。結局、言語によって綴られたさまざまなものが、その足腰がシャンとしないままに、何らかの「安全な容器」に収納されたままで「目に見えやすい」格好になっているだけというケースが多いことが、いわば「学問の不良債権化」につながっているように思えます。

 考え、論じ、動くことは、人間を豊かにするための必須要件であることは疑いありません。しかし、その結果として生み出される「ことば」が肉なく血通わぬものであれば、その意味は、単に「存在している」以上のものにはなり得ないでしょう。

 用語を「操作する」すべや、あるいは筆致の体裁を整えるすべを習得しても、ものしたことばのレベルに、当の本人が追いついていないことは、「書く」ことを業としている人にとってはもちろん、それをつうじてさまざまな行動を行う人にとって、しばしば陥りがちな落とし穴であるだけに、「等身大のことば」をこそ、心がけていきたいと改めて思ったしだいです。

8月20日(火)

 備忘録のような形で、OFF会レポートを軽く書きました。表に出してはマズい話題については書いていないうえ、参加者以外には特におもしろくも何ともないものでしょうから、読みやすさについてはまったく考慮せずにつらつらと事実だけ重ねています。しかし、書きとめていくと、ずいぶんいろんなことを話し込んだものだと思うことしきり。話のネタが尽きてお開きになったわけではなく、時間があればまだまだ延々と続きそうだっただのですが、実生活での静かな自分を見てみると不思議にさえ思えるほど饒舌だったようです。ふだんは比較的口数が少ない方なんですが、私のOFF会に参加してくださった方に言下に否定されそうです(^^;

 秋葉原での収穫、というか買い物については何も書きませんでしたが、何もありませんでした。あれ以上荷物を増やしたくないという点と、そもそも置き場所がないので積みゲーの消化が先だ、ということが理由です。もっとも後者は、年がら年中言っているような気もしますが(^^;

8月19日(月)

 当サイト第2回目のOFF会を開催いたしました。昼パートと夜パートとには、それぞれ(私を除いて)4名および3名の方にご参加いただき、Web上だけではまず知り得ないさまざまな意見交換などを行うことができました。人との会話というものはイレギュラーな要素を交えたコミュニケーションであり、誤解や脱線を不可避的に伴うものですが、それゆえにさまざまな可能性を開く契機となるものであって、整然と記されたテキスト群ではまずうかがいしることができない興味深いことに触れられるわけですが、その楽しさを実感できたことを、まず素直に嬉しく思います。

 昼の部で秋葉原をうろついていたところ、鷹月ぐみなさんとばったり。こういう趣味の持ち主の行動パターンはある程度重なるとはいえ、驚きました。「偶然」って、あるものなんですね。一緒に合流してソフトをめぐってあれこれおしゃべりと相成りました。

8月16日(金)

 掲示板の方でも書きましたが、『闇色の童話』(キャンドル)と『Wind』(minori)を買ってきました。後者については、体験版をプレイした段階ではとうてい買おうという気にはなれなかったのに、掲示板で話題になったら結局やってしまうのだから、私もずいぶんいい加減なものです(^^; もっとも、いろいろと作品のクオリティについてはマイナス評価を多く目にしてきただけに、逆にある程度割り引いて見られるかも知れません。

 現在、みなもをクリアしたところですが、確かに期待をこめてプレイしていてこんな展開だと知ったら怒りが先に立つのもおかしくないな、と感じたとだけ述べておきます。

 

 鷹月ぐみなさんのサイトの「セルフノート」の8月15日ぶんを拝見いたしました。私は氏が書かれているほどしっかりと踏み込んで「分析/解釈」について考え込んでいたわけではなかったことを、ここで白状しておきます(^^;

 そのうえで、「分析」という言葉について個人的な見解を付け加えておきます。

 

 例えば、ある「楽しむ対象」(ゲームでも小説でも漫画でもなんでもいいですが)を「作品」ととらえた場合、それはあくまでも、言葉ないしはそれに準ずるものの体系によって形成された「意味」を一義的に持ちます。言い換えれば、そういった言葉の集積をなしえた「作者」によって特権的に生成されるものが「作品」といえます。

 一方、「分析」という営為の背景には、それを行うにあたって「対象としての作品」の窮屈さを排し、自らが(受動的な「消費者」に甘んじることなく)諸コードの相互変換が行われる場所に一員として参加し、作ることと読むこととの相互関係が不断かつ意識的に行われることによって、意味がダイナミックに生産されるということがあります。これを通常「テクスト分析」と呼びます。

 このあたりの詳細についてしっかり知りたいのであれば、鷹月氏が8月3日の「セルフノート」であげられている『物語の構造分析』(ロラン・バルト、みすず書房)を一読されるのが良いでしょう。

 

 しかし、私が「方法としてのテクスト分析」に対してあまり積極的でないのは、ただ単に、「主体的参加」という「積極性」の要請こそが、これ以上ない権力性を帯び、それが途方もない抑圧を生みかねない、というだけです。要は、「もっと参加せよ!」と言われたところで、自発的にそうするつもりもないのに付き合う義理も必要性も感じない、ということです。もちろん、本当に自主的な「参加」が可能な機会が多ければ別ですが、実際には、そういった機会を多くもてることはあまり現実的ではなく、比較的少ない「機会」を大事にするほうが良さそうです。

 バルトの物言いを借りれば、「作品」は物質の断片で図書館の書物の空間を占めるものに過ぎず、「テクスト」こそが方法論として意味を持ち言語活動の中でのみ存在しうる動的なものであるのは確かでしょう。そしてまた、動的な空間における「参加」が、許されてこなかったのが現代資本主義社会であるというのも確かだと思います。しかし、その「許されてこなかった」ことを、資本主義体制における抑圧――特に、所有の自由に対して絶対的に付随する“持たざる階級”に対する抑圧――に結びつけて論じるよりは、むしろ大衆社会における「誰にでも門戸が開かれている(ように見える)」欺瞞性に結びつける方が、現代社会においてはより説得力が大きいものになると思います。

 この考えは、私が「語り」という表現をしばしば用いていることとも重なってきますが、コミュニケーションの道具としてのディスクールをより大事にしていきたい、という思いに基盤を置いています。

 目に見えない<制度>による抑圧から逃れようとすれば、結局は「身丈に応じた姿勢を取る=できることを行う」ことが、無理なく成果を生みうるのだと考えております。

8月12日(月)

 お盆休みなどというシャレたものは私の仕事にはありませんが、それとは無関係に現在は比較的時間に余裕があるので、こまごまと攻略データの手直しや再検証、あるいは依頼のあった攻略法の作成などを手がけています。結果として、旧作の掘り返しプレイが多くなりますが、それでもプレイするたびになんらかの「新しいもの」を発見することができれば、それはエンターテインメントとしての機能を十分に果たしているのだろうと思います。攻略法を作る際には、プレイヤーに対して「特定のプレイスタイル」を極力押しつけることないものにしたいと考えていることもあって、検証作業がなかなか大変なのですが、その結果、通常のプレイでは見えてこなかったものに触れられることもしばしばあり、これこそが攻略法作成者の醍醐味なんだろうな、などと思っています。

 今後発売予定のゲームとしては、ひとまず『ネジレ』(えん)ですね。前作『夕闇の童詩』が非常にツボにはまったために注目していたという点もありますが、あの独特の「温かさと哀しさ」の双方を具備した、このうえない「人間くささ」がどう出てくるのか、というところに注目しています。現在、叙情的な綴りを期待できる数少ないブランドですし、こういう作品は長く生き残ってほしいものですから。

8月11日(日)

 トップページにも書きましたが、「X-GAME STATION」2回目のOFF会を開こうと考えております。特に何をするというわけでもなく、この種の趣味を持っている人間の定型的な巡回ルートをまわりながら、あれやこれやと話すという形になるかと思います(前回がそうでした)。場所は秋葉原周辺を予定しておりますので、その日に合流可能な方であればどなたでもOKです。参加ご希望の方は、連絡用メールアドレス・氏名(もちろんHN可)をご記入のうえ、Kenまでメールをお送りください。

 さて、現在いくつかの攻略データの再検討および作成に着手しています。レビューは、今月中にもう1つ書くことを努力目標としておりますが、果たしてうまくいくかどうか微妙なところです(^^; 過去3か月ほどに比べると仕事のペースが比較的穏当になってきた(単に身体が慣れてきたという説も)こともあって、「家に帰っても目が疲れてPCの電源を入れるのもうっとうしい」ということはなくなってきました。あとはゲームのプレイですが、積みゲーはいっぱいあるので書く題材には事欠きません(胸張って言えるコトバではないのですけれど)。

8月10日(土)

 最近はメールのお返事も大幅に遅れることが日常茶飯事となってしまい、情けないことこのうえない限りですが、中にはいろいろと考えさせられるメールもありました。そのうちの1つを、ここでご紹介させていただきます。

 DIVI−DEADのレビューを見たときに、それは感じられたことでした。
 Ken様はこれを、「疲れるゲーム」だと表現されました。

 それに「徹底的に楽しみつくししゃぶり尽くす」意図は感じられません。
 単なる駄作ということを提示しただけではないでしょうか。
 それは「楽しみ」でしょうか。
 私にはそうは思えません。

 ほかの部分にしたところで、Ken様は嫌いだと把握されたエロゲに関しては、
その「嫌いな点」のみを強調し、それの改善を訴えて終わっているように見えま
す。
 これは本当に「徹底的に楽しんだ結果」でしょうか。
 ここに、Ken様の当初の理念は綻びを見せているように思われます。

 本当に徹底的に楽しもうと思うなら、そこからいかにして面白いと思える部分
を引き出すか、ではないでしょうか。
 もちろん、それはつまるところ「○○として見れば」に集約されてしまいます。

 好悪という点のみで判断することは、少なくとも一般的にはあまり得られるものがない下策と考えられるでしょうが、少なくとも「趣味」という領域においては、好悪という一次判断の重要性が大きくなるのは、むしろ自然のことです。そしてまた、まったく異なる角度からの視覚を導入することによって、対象をより多角的に評価することが可能となり、また自分の視点の柔軟さを保つことができる点もまた、やはり自然のことです。

 この両者は相反するものではないとはいえ、両立させるのはなかなかに難しいことです。1人の人間が視点を多様に保つことの困難さもさることながら、それらの視点を総合的に把握・解釈することの労力を考慮すると、少なくとも私に関するかぎり、その行為はすでに「作業」という段階に入ってしまいます。端的にいってしまえば、ゲームを語るにおいて、そこまで「自分で、自前の<多様性>を調達するだけの労力」を、私は費やす気にはなれないのです。

 もちろん、積極的に、そういった「作業」を行いたいと思うケースもあります。精神的にモチベーションが高く、時間的に比較的余裕がある状態で、なおかつ対象物(具体的にはゲーム)の中に、語りたくなる(ツッコみたくなる)もろもろの要素が内在しているという諸条件を満足しているというかぎりにおいて初めて成立しますが、そういうケースもないことはありません。しかし、プレイしたゲームの大半に対してこれを適用するというのは無理です。

 そういった「作業」であっても逃げられないのがプロフェッショナルですが(職業として成立するかどうかはまったく別次元の話です)、私は趣味の領域では、自分が「楽しむ」ことを最優先しており、徹底的にアマチュアの立場を堅持しようと考えていますから、ここで意地を張るつもりは毛頭ありませんし、そもそも私の能力ではとうてい不可能なことです。

 従って、「徹底的に楽しむ」の中に、「自分だけで」対象物から“面白さ”を十全に引き出すことは、私は考えておりません。

 「○○として見れば」という物言いによって「人それぞれ論」に走ることは、結局は何も生むことはありえないという点については、この「戯れ言」や掲示板でさんざん繰り返してきましたし、特に付け加えることはありません。

 蛇足ながら、私はゲームの中におけるさまざまなプロットに対して、それらを分析していくという手法は取っていません。これは、ゲームを実際に「作る」立場であれば非常に重要な要素として浮かび上がってくるでしょうし、実際鷹月ぐみなさんのサイトなどをご覧いただければおわかりいただけるでしょうが、私はむしろ「解釈」の立場を優先しています。そこには、解釈者の立場によって対象が左右されることを必ずしも否定的にはとらえず、むしろその「幅」の広さを楽しむことを第一にしています。このため、「隠れたプロット」を引き出して提示するよりも、むしろそれらの配置を「消費者=プレイヤーの立場」(ただし、この“立場”が決して一般的とはいえないものであることは承知の上です)から動くことなしに綴っていく、という姿勢でおります。この点は2000年10月26日の本欄でも書いたとおりで、今でも変わっていません。

 しかし、仮にそれが恣意的極まりない「○○として見れば」にすぎなくとも、
そこで提示された意見にある程度の論理性があり、そしてそのような見方をすれ
ば、駄作が名作に転じるのであれば、それは意見のひとつとして提示されるべき
だし、そのようなものこそ、見ていて「徹底的に楽しみ、しゃぶり尽くす」こと
ができるものだと私は考えます。

 また、そのような意見であれば、それが恣意的に過ぎなくとも、ほかの人に能
動的に楽しませる力を持っていますし、そこから生まれる反論はまた、建設性を
十分に有すると私は考えます。

 この点については、対象である作品に対して「駄作を名作に転じる」ための契機を用意する必要も義理も、レビューの書き手である私には持ち合わせていない、という答えになります。

 なるほど、「評価するための指標」を替えることによって、評価の結果は大きく異なるでしょう。しかし、こういった「指標」を「独力で」替えることは、むしろ結果そのものを特定方向に誘導しかねないものと考えております。

 実際問題として、私は、この「戯れ言」、あるいは個人どうしのメールで「***と考えてみると…」という書き方で、異なる視点での解釈を試みることは珍しくありませんが、それらは得てして、そのゲームの総合評価に対して「好意的な結論へ導くために、かなり無理して好意的な解釈を行っている」ものです。そういう解釈といえども、方法論として見るかぎりそれなりの面白さは備えているでしょうが、ゲーム解釈そのものをより豊かなものにしているとはとうてい考えられません。

 これは、単に私の力量不足と言ってしまえばそれですべての説明が済んでしまう次元の話ではありますが、そもそも「提示する」意見そのものを「多様な視点によってさまざまに見る」ことを「書く者が自ら行う」ことは、私は書き手のバイタリティを阻害する決定的な要因になりかねないと考えます。多様性とは、自らの中で生み出すものというより、他者との関係の中で得ていくほうがはるかに自然でしょう。

 また、「論理」そのものが、コミュニケーションの一環としての言説にとっては強大な暴力性を持つ点を忘れてはいけないでしょう。この点も、2001年7月27日の本欄で書いたとおりです。

8月8日(水)

 多忙とはいえ、ついに先月はレビューを1本も書けませんでした。これまではとにもかくにも月1本は何かを書いていたのに、まったく情けないかぎりです。今月はこれまでに比べて時間的な余裕を比較的取りやすいので(今月は3日から4日程度は会社を休めそう)、何本か書く予定です。

 また、攻略関連の質問メールなどもかなり多くいただいているのに、検証したり書き直したりすることがなかなかできない状態が続いており、非常に心苦しいかぎりです。古いお問い合わせから順次対処していく予定ですので、今しばらくお待ちください。

 

 肝心のゲームのほうはといえば、『蒼い海のトリスティア』(工画堂スタジオ)を、どうにかこうにか1周終わらせたところです。ひとまず、悪役が渋く決まっているのはいいとして(単なるステレオタイプ的な俗物ではなく、むしろすがすがしささえ感じさせる筋の通ったマキャヴェリストです)、主人公の身近にいる登場人物たちのキャラがあまり立っていないため、盛り上がりという点では今ひとつ物足りなさを感じました。一方、シミュレーションゲームとしてはなかなかおもしろいものに仕上がっていると思います。発明よりは売り込みの方法によって結果が大きく変わってくるうえ、成功率がむやみやたらと低い場合も多く、開発費をたえず気に掛けていないと悲惨なことになるというのがなんともつらいところですが、何回かムキにやって取り組んでやろうという気にさせてくれます。ただし、発生するイベント自体はあまり楽しいものではないので、パルフェシリーズのようなノリを期待すると肩すかしを食うでしょうね。

 18禁ゲームについては、『Fall Down』(Lust)を、その主題歌に惹かれてという理由で買ってしまいました(お気楽なエロ指向ものを久々にやってみようか、という気になったこともあります)が、こっちはどうにもハズレっぽいですね。



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