2002年12月の戯れ言


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過去の「戯れ言」

12月31日(火)

 現在『ギャラクシーエンジェル』の攻略法を作成中です。「年内に1つアップします」と書きましたが、果たして年が明ける前にどこまで書けるか、微妙な情勢になっています(^^;) ひとまず、パラメータなどの数値変動データについては、情報の解析と検証がまったく進んでいないため、この部分は後日追加する形にして、イベントシーンごとの選択肢および戦闘のポイント、各機種の特徴などをまとめていきます。このほか、いろいろ隠れた小ネタなども集めていきたいのですが、こうなると数日では不可能。ともあれ、SLGやRPGの攻略法は作るのがたいへんに楽しいので、プレイした体験をいろんな形で再活用してもらえればいいな、と思います。

 このほか、掲示板でEP−ROMさんが書かれている「昔話」シリーズについて、次の更新で整理し、新しい独立コンテンツとしてまとめます。従来のテキスト系コンテンツにくらべてまとまった量があるので、「私の一言」などとは切り離す予定です。

12月24日(火)

 昨日アップした「私の一言」HTMLファイルが、IE5.5/6版ではまともに見られない状態になっておりました。メールにてご指摘くださったかた、本当にありがとうございます。複数のブラウザでチェックするように努めてはいるんですが、CSSは既存のものを流用、HTMLも今までのフォーマットと大きく変わらない場合、常用ブラウザ+いくつかで済ませてしまっていたために起こったことです。申しわけありません。CSSに関するバグは多かれ少なかれどのブラウザも含んでいるのが実情なので、注意が必要ですね。

 解決策もいくつかあったのですが、もともと「私の一言」の従来のファイルそのものがレガシー(といえば格好いいですが、実情は知識に乏しい時代に書いたもの)という面もあり、レイアウトをほかのレビューページと完全に統一しました(壁紙とカラーリング以外はほぼ同じです)。これに合わせて、HTML(いやXMLでもいいのですが)を文書構造に対応した、いうなれば「本来あるべき姿」にリライトしようとも考えたのですが、結局めんどうくさくなって投げ出しました(^^;

 レビューページやこの「戯れ言」では、一応HTML4.01の規格からは逸脱しないようにしています(一応心がけてはいますが、逐一チェッカを使っているわけではありません)が、HTML文書に本来求められるような構造化を明確にしたものにはなり得ていないのが実情です。特に、パラグラフ群の区切りに、全角スペースを入れたp要素を使うなど、方法としては邪道もいいところなのですが、これに替える方法がなかなか見当たりません。例えばdiv要素をもう1つ作り、CSSでpaddingを指定することは可能ですが、むやみに入れ子状の階層を増やすと構造がかえってわかりにくくなる(ブラウザの処理を考えても、レンダリングに異常を起こしやすくなるでしょう)うえ、CSS非対応ブラウザではこれが表示されなくなるというマイナス面が無視できません。

 そもそも、この種の「垂れ流し文」において文書構造を明確に示さなければならない、という発想自体、私にはどうにもひっかかるものがあるため、結局こういう中途半端なスタイルに落ち着いてしまっているのが現状です。自分なりに結論を出し、そこで手を打つほうがスッキリするのでしょうが、こういう「スッキリしないものを抱え込」んだままの状態を維持できるという柔軟性を持っている、というのも、1つの姿勢だろうと考えています。

 こう書くと、あたかもHTMLやCSSについて体系的に知識を把握しているかのように思われるでしょうが、実際にはW3C発の仕様文書に直接アクセスすることはあまりなく、市販の解説本で手元に残しているのも1冊だけ(岡蔵龍一『詳解HTML&スタイルシート辞典』秀和システム、2000年9月)という状態なので、けっこうとんでもないまちがいを埋め込んでいる可能性もあります。

 

 ここ数日書いていた内容があまり明るいものでなかったせいなのか「レビュー書きをやめるんですか」という問い合わせをいくつかいただきました。しかし、今月に入って書いてきたことは、年の瀬という“区切り”の時期を迎えたこともあって、自分のサイトのよって立つ「位置」を見直すために考えたことをまとめたものに過ぎません。特にモチベーションが大きく低下したわけではありませんし(物理的状況により、ゲーム購入に対するモチベーションは大幅に低下していますが、それはまったく別の話)、まして「X-GAME STATION」の更新停止をする予定などまったくありません。ちょうど1年前に就職したときには「忙しくなって続けられなくなるかも」と思っていたのですが、時間の使い方を変えることで何とかなってきましたし、短期的にどうこうすることはまずありません。まあ、2サーバ体制のリストラを行う可能性もありますが、旧ニフティサーブ会員のみが持てるスペースは確保しておきたいということもあって、こちらも当面は現状維持の予定です。

12月23日(月)

 何らかの“カンジタコト”“オモッタコト”を言葉へと落とし込む作業そのものが簡略化され、いわばレディメイドの言葉をもってそれに替えることは、誰しも日常的に行っていることです。自分の中から言葉を振り絞れば、それだけその言葉には重みが出てきますし、そういった言葉がぶつかれば、それぞれ血も肉も伴っているものどうし、非常に有用な刺激となりえます。

 しかし昨今のネット上で活発に行われている文字ベースの「発話」は、コミュニケーションを取る場合の前提である「対等なる発話者相互の関係」を期待する言葉を介するものではなく、自分がある観念を「受容」することによって、その観念を受け入れた者として「ゆるやかな集団」への参加を表明し、それによって自己主張の正当性が確保されたものと安心する、という傾向が、より強くなってきているのではないか、と思えてなりません。

 もちろん、自分の意見が孤立しておりなかなか同調者がいないと判断した場合、それが例え肉体的あるいは社会的にリスクがないものであっても、人は沈黙する傾向にあるものです(「沈黙の螺旋」)。逆にいえば、自分と同じ意見の人がいればそれだけうれしいわけで、「仲間がいる」ことによって安心するのはむしろ当然のことでしょう。しかしこれが行きすぎると、自分の見解なり認識なりを既製のものに委ねて判断し、多数派からの承認を得たものとして“既製のものを自分のものと重ねて”承認するということになります。

 また、対象の評価に際しても、それを何らかの形でカテゴライズすることが第一となっていることがかなり多いようですが、これも自己分類による帰属探しに基づくものといえましょう。

 こういう問題点は、比較的古くから「マスコミの役割」として議論されてきましたが、現在のようにネット上の掲示板の間口が非常に広くなると、いわば受動的な立場であったマスコミからの情報とは異なり、多少なりとも自分が「発話」しているという認識を持てる形式を取っていることもあって、この「認識の他者依存」はさらに深く浸透しているように感じられます。

 この「X-GAME STATION」でのレビュー書きは、サイト開設当初の数ヶ月はさておき、それ以降はいわば「言葉探し」の連続のような方法を採ってきました。それは、自分が言葉をひねり出さないかぎり、読む人に与えるものはより限られたものにしかならないだろうし、そうすれば自分が得られるものもそれ相応に低いものに留まる、と考えたからでしょう(こんなこと意識してやってきたわけではありませんが)。私は「自由に書ける」ことが個人サイトを運営していくうえでの絶対条件だと思いますし、だからこそ生み得たものを確実に掴んでいる(費用対効果はひとまず置いといて)以上、この姿勢を変えるつもりはありません。ただし「自由に書く」ことが必ずしも楽な方法でないこともまた確かなのであって、それが重荷に感じられるようになったときが、このレビューサイトの終焉になるのだろう、そう思っています。

 

 攻略サイトとしての終焉はいつか、というツッコミは、ひとまず勘弁してください(^^; ネタはあるけど、なかなか検証するだけの時間が取れない、ただそれだけなんです(取りかかっても泥沼にはまった例もあるし)。

12月20日(金)

 『ギャラクシーエンジェル』を全員クリアしたので、レビューをアップしました。このゲームはむしろ一般PCゲームの延長として評価するのが妥当なのでしょうが、一応出てくる女の子がかわいいという理由で入れてしまいました(^^; まあ「こういうのは取り上げない」といった“排除の論理”を持ち出すのは、うちのサイトには似合わないですし。このほか「私の一言」なども追加したいのですが、まだちょっと時間がかかりそうですm(__)m

 

 使い古された表現なのでしょうが、メディアの発達に伴い、祭りの過剰による「ドラマの日常化」の進行はとどまるところを知らないようです。この変遷を一個人がリアルタイムで「体験的に」実感するのは不可能でしょうが、それでも子どものころに感じた「日常の中にドラマを見出す」ような機会が、現在は劇的に減少していることはまちがいありません。

 翻ってみれば、これはゲームそのものの中にも同様に内在された問題なのかもしれません。ゲームという「徹底的にフィクションとして構成された空間」は、まさに「日常」における“体感/体験”の感動を殺ぐ「悪役」の代名詞として扱われることさえ多いわけですが(その意見の是非はさておき)、そのゲームそのものでさえ、いわば「濃縮された祭り」ではなく「ルーティン化された祭り」として、しだいに希薄化・日常化されていっている気がします。祭りがルーティン化され、それが「慣習」として(支配的な感覚・観念をベースに)位置づけられることによって立場を保全されれば、あとは内部のダイナミズムが広がりを見せることはもはやなくなっていきます。

 昨今のさまざまなゲーム批評を見ていると、こういったゲームの「日常化」をむしろ歓迎しているような気が感じられます。もちろん、人によって尺度がさまざまであることを前提とすれば、望まれるべき方向性も多様であるとはいえるでしょう。しかし、個別に見れば、単線的に良否を判断する、あるいは個別要素ごとに還元することで事足れりといった論評を是とする見解が妙に目立つ気がします。

 レビューサイトを開設して3年4か月という期間、さまざまなサイトの動向を見聞きしたり、またそういったサイトの管理人氏といろいろやり取りをしたりといった経験を重ねてきましたが、ゲームの「プレイヤー」として求めるものが多彩であるという姿勢じたいが「特殊」なものになりつつあるのではないか、という気がする昨今。だからといって、この「X-GAME STATION」の位置づけを(主体的に)変える必要も義理もありませんが、どことなく寂しい気がします。

12月17日(火)

 多様性の認容が重要だ、ということは、従来からこの欄で繰り返し書いてきたとおりですが(逆に言えば、それだけ「言うは易し」な難問であるともいえますが)、実際のネット上におけるコトバのやり取り、あるいは相手に対する伝達姿勢を見ると、そもそも「人に対して接している」という認識が希薄なまま、乾いたデジタルデータを暴力的に送信しているだけなのではないか、と思うことがままあります。

 しかし逆に、どんな美辞麗句を並べ立てたところで、それが単なる看板に過ぎない、ということもあるでしょう。否、世間一般で広く「普遍的に尊重されるべき概念」と認知されているものを掲げる場合、その概念そのものを否定する、ないしはネガティブに評価することが非常に難しいために、それを標榜することがあたかも「御老公の印籠」のごとくまかりとおるケースが少なくありません。人権を盾にした人権侵害が行われることなど、例を出すまでもなく日常的に(!)行われているわけです。

 では「普遍的に尊重される概念」というのは、それを持ち出すことそのものが正当性の薄弱さをただちに示すものである、といってよいのでしょうか。確かに、法的な根拠を基本法の第一条あたりから引っ張ってくるような論法の説得力は、さして強いものとは感じられないでしょう。しかし、そういった「原則」は、それが「肉体的な実感」があるかぎり「絶対的な」力を持つものであり、またそういうものだと心するべきだと私は考えます。

 例えば「寛容」というコトバ1つをとってみても、それは心がけて何とかなるものではないことは確かです。むしろ、自分の(倫理的、法的、戦略的、そのほかもろもろでの)失策に対して、この「寛容」というコトバがふさわしい態度をもって接してくれる人がいれば、その人は「寛容」な人だ、と思うことでしょう。逆に言えば「寛容」という概念は、「不寛容」に対する概念、あるいは自分の外部から自分の意識に訴えかけるものをもつ概念として初めて、血肉を伴ったものとして生きてくるわけです。対概念を措定して初めて実効的な意味を帯びる概念の意味はひとまず措くとして(話が袋小路に陥るのは目に見えていますから)、「寛容」という概念を空虚化している「実力を持つ超大国」の「論理」に対して反発したり絶望したりする際に、この「寛容」という概念は“それがなくてはならない”切実なものとして用いられているといえます。実際、この「寛容」という概念を実現しようとすれば、それは周囲への馴化をカメレオン的に実現するような「処世術」を絶ちきり、徹底的な孤独を追求した末に「外部」を尊重する(そうでなければ「自己」を糊塗することになる)という果てしない厳しさが求められるわけで、まことに困難なことではあります。しかし、切実なものを「目標として」掲げなければ、現前している問題点をデフォルトのまま存置することになります。

 ファンダメンタリスムが持つ危険性も忘れてはいけないでしょうが、それ以上に、「原則」の意味を再び考え直す必要があるのではないか、そのように思います。シモーヌ・ヴェーユの物言いを借りれば「不幸の普遍性」を克服する処方箋など存在しません。ならば、病理の存在を認識しつつ、自分が耐えられる範囲内での批判を行っていくのが望ましい姿でしょう。

 ものを書いていると、得てして「……であるべき」という用語を使いたくなります。しかし、“批判”が自己正当化のための手法になった瞬間、それは批判の持つ力を喪失しているといえます。あくまでも、その場その場の「可能な範囲での視点」をベースに、臆することなく、出せるものを出せていけたらそれでいい。そう思っております。

12月16日(月)

 『Memories Off 2nd』を一気に終了(全エンディングクリア+全CG回収済み)しましたが、どうもスッキリした印象がないだけでなく、何か心に残るものがあったわけでもありません。一応「がんばって作っている」というのはわかるのですが、作者の作ったタネがボロボロと不協和音をたてつつ詰め込まれているという印象が拭えません。また、そこかしこに作為的な展開が見受けられたこともあります。

 思ったことを断片的に綴っていくという形でレビューを書きましたが、どうにもまとまっていないなと思いつつ『Memories Off』のみなもシナリオをリプレイ。5分後、「総評」を全部書き直しました。結局、この作品をプレイして抱いた違和感は、私が前作で魅力として感じた個所がみごとに減殺されていることにあったような気がします。その部分があれば、評価はまた違ったものになったのではないかとも思えますけれど。

 

 この欄や掲示板で、メーカーとプレイヤー(ユーザー)との関係について取り上げることはけっこうあるのですが、一介の消費者としては(プレイする自分を楽しんでいる以上、消費者以外の何者といえようか)、メーカーに対して求める欲求は「より楽しめるものを」だけで十分です。そのためには、市場がより健全に(ベターに、さもなくばせめてより悪くならないように)機能させていく必要がありますが、その鍵を握るのが消費者である、これが現在の大衆消費社会に立脚した資本主義の構造といえます(大げさでも何でもありません)。これは、ゲーム業界でも当然当てはまります。自分が深く関与している「ギョーカイ」の特殊性を強く訴え、その「高貴さ」を掲げても、それは結局「認めているもの」の中で収縮していく末期社会を作ってしまうのがオチでしょう。そうならないためにも、「外界」との共通言語を維持できる程度の「批判能力」を、「一介の消費者」として持ち続けていきたい。そう思います。

12月15日(日)

 PS/DCからWindowsに移植された『Memories Off 2nd』(KID)をプレイ中です。ほたるHappy→つばめHappy→巴Bad→巴Happy→鷹乃Happy→希望(ラスト3つはネタバレのため背景色と文字色を同色化しています)の順にクリアしています。

 まだプレイの途中なので総評をくだせる段階ではありませんが、現時点では「わけわからない」という展開、そしてキャラクターの行動が非常に目に付きます。

 各ヒロインごとにそれぞれ別個のシナリオが用意されており、前半部分は共通ルートで進み、フラグが立つとそれぞれのルートに入るというスタイルになっていますが、これらの各シナリオ間における設定や展開が大きく異なっている点が特筆できます。各シナリオ間での設定の整合性がない(矛盾だらけ)という点は別にいい(そういうものだと割り切れる)のですが、それらをズラせていることの意味がほとんどなく、むしろ別のシナリオをプレイしたときにプレイヤーを困惑させる方向に作用しています。具体的には、ほたるの両親と主人公との関係が、ほたるシナリオと別の某シナリオとで粗密の度合いがまったく正反対になっている点など、なぜ一方でこうして一方でああしているのか、と不審に思わせる以上の役割を持っていないようにみえます。

 また各シナリオに共通しているのは、主人公・健と、付き合っているほたるの2人という「中軸」であり、したがってほたる以外のルートでは彼女と別れる必要がでてきますが、ここで「ほたると別れる」ことがシナリオ展開上意味をほとんど持っていない、すなわち恋人との別れが、主人公の精神的な動揺を表現するためのイベント程度にしか表現されていないものがけっこうあるのです。別れる「説明」はあるとはいえ、そこに刹那的な悲壮感以上のものが何もないままデンと出されても、それを納得いく形で受け入れるのは無理です。この「別れ」が、主人公とほたるの2人の関係のほころびに起因することは確かなのですが、ほたるの行動パターンに一貫性がなく軽挙妄動のなれの果てといっても決して酷ではない展開がてんこもり。主人公の脱力感や無力感についても、サッカー部から引退して当面の目標を失う一方、ほたるは「やりこむ対象」であるピアノ演奏に向け日々努力していることに対して負い目を感じるという程度で、このくらいでバーンアウトするキャラクターの前に新しいヒロインが登場することじたいが不自然です。

 常に具体的な目標や行動指針を1つ規定してそれに向かって邁進しなければ「いけない」といった青臭さや説教臭さが漂ってくるのがかなりうざったいのですが、これは私が歳を取ったという面もあるのかな?

 

 前作でもやはり、各シナリオ間の完成度のばらつきは非常に大きいものでした。唯笑・紫音・小夜見の3シナリオは、基本的に大した評価はできません(キャラクターについてはまた別。反論はご随意に)。

 しかし、ぜい肉をいっさい排し、最小限のコミュニケーションからキャラクター間の“関係”を作り、意味がどうのといった「後付けの物語」に落とし込むことから逃れている点で、みなもシナリオは非常に完成度の高いものになっています(エンディングの結果欠落を指摘する意見もあるでしょうが、それを「説明」する必要があるとは思えません)。また、主人公の能動性をあえて(本当に意図的かどうかはわかりませんが)軽視し、ヒロイン側にリーダーシップを委ねることで、受動的な主人公と積極的なヒロインという組み合わせによって「両者の傷の舐め合い」というただれた構図(これが“美しい”と感じられるような描写ははたして可能なのでしょうか?)から免れている点で、かおるシナリオもかなりできがいいものです(むしろ主人公の心情説明――特に後半――は過剰に過ぎるので、もっと簡潔に締めていればよかったとは思いますが)。いや、この両シナリオにおいてのみ主人公がまともだった、という見方もできるんですが。

 そしてまた、この両シナリオの最後に、主人公の前の恋人であった「彩花」の存在がきちんと残っており、その結果「主人公」が迎えるシナリオの結末がきちんとできていました。

 しかし本作では、「ほたる」に対する述懐がきわめて中途半端なままに終わっているケースが多い多い。このため、途中のイベントに無理や無茶を重ねた結果(つばめシナリオのクライマックスが顕著。何アレ?)、焦点が拡散して「結局、このストーリーって何だったっけ?」となっています。

 

 プレイした中で評価に値できると思えるのは、巴、ついで希がらみですかね。前者は前作のかおるシナリオにタイプが近いのですが、因果応報の累重の果てといったところか。後者は、正直なところまだよく自分の中でもわかっていないことが多いのですが、エンディング直前までは悪くありません。しかし(以下ネタバレ)踏切で「選択」するという意味は「二股をかける」ことを前提として初めて意味を帯び、そして悩みの対象となるものです。そこにおける「選択」をalternativeとして強調するなら、その両者を相互に独立したものとして認識していることが絶対に必要です。しかし実際には、直前になって「独立」を現前させられた状態での“認識”に過ぎず、それは有効なものとはいえません(以上ネタバレ)。過激な言い方をすれば、(以下ネタバレ)踏切で落命する対象をほたるにしておけばalternativeを説明できたでしょうが、あの2人ではそれは無理(以上ネタバレ)。この部分は、その後に「用意されている」ハッピーエンドにもっていくための遮断機ならぬ歪んだトールゲートに過ぎないものと感じます。エンディングにたどり着かなければ、このシナリオも悪くはなかったと思うのですが。

 

 なお、コンシューマ版では「音楽はよい」という声を聞いていたのですが、BGMファイルの圧縮率のせいか音質がひどいものです。ベートーヴェンやらラヴェルやらのピアノ曲まで使っているのですから、CD-DAとはいわないまでも、ちょっと聴いただけで「何だこれ」という程度の音にするのはもったいないです。

12月13日(金)

 久々にレビューを追加しました。そうはいっても、『流聖天使プリマヴェールV』(エスクード)の発売が目前に迫っており「そういえば元のゲームやってたっけなあ」と思い出してリプレイ、ちゃちゃっと書いた、というだけだったりします(^^; 今週末には『メモリーズオフ 2nd』(KID)が控えていますが、これ以外の予定は今のところなし。積みゲー崩しが何よりも先なんですが、どうも仕事がいそがしいせいか、ゲームをやる時間があったら寝るか外に遊びに行くかが優先されているのが現状なので、どうもいけません(本当にいけないのか、というツッコミは却下)。

 

 先日、ある法曹関係者(以下「A氏」とします)と打ち合わせをする機会があったので、雑談の中でminoriの一件について(私の趣味がバレない範囲で「ネット上で話題になっていた」という言い方で)取り上げてみました。このA氏の専門領域とは多少ずれているうえ、以下はあくまでも同氏の個人的見解に基づくものであること、またWeb上で公開してよいと同氏の許諾を得た範囲内のものであることをあらかじめお断りしておきます。

 

Ken「こういう事例では、やはり民法上の契約自由の原則が尊重されるのでしょうか」

A氏「おそらくそうでしょう。個人情報保護の取り扱いに関するガイドライン等が整備され一定のコンセンサスが得られつつある現在、それと逆行する形での契約は望ましいものとはいえませんが、現時点では法的に瑕疵があるとは言えないでしょう。もっともメーカー側にとっては、相手の身分確認が確実を期していると保証する(Ken注:相手が「直接の契約方」でなく「転売あるいは譲渡を受けた人」であることが絶対にない、ということ)ことは難しいでしょうし、通常はこういうリスキーな行動は取らないでしょうけどね」

Ken「転売ないし譲渡が行われた場合、二次購入者は善意の第三者としてメーカーの取引制限をいっさい免れるわけですが」

A氏「善意の第三者に対して個人情報の開示が行われた場合は、当然損害賠償請求が可能でしょう」

(中略)

Ken「民法以外ではどうなるんでしょうかね。例えば不正競争防止法とか」

A氏「所得や利益に不正が介在しているわけじゃないから、不正競争防止法には当たりません。しかし独占禁止法に照らすと、不公正な取引方法に当たる拘束条件取引に該当する可能性が高そうですね」

Ken「拘束条件取引は公正取引委員会の指定する不公正な取引方法に該当しますが、公取委に排除を求めることも可能でしょうか」

A氏「現在は民事救済制度が施行されているので、裁判所に対して差止請求訴訟を提起することも可能です。被害を受けた消費者に取って、制度的な選択の幅が広がったとは言えますね。ただし、排除請求と差止請求訴訟とを比較した場合、その内容そのものが消費者の社会的立場に直結しうる場合もあるので、一概に司法を介するのが妥当とはいえません。これについては、公取委の担当者、あるいは専門の弁護士でないと判断できないでしょうね」

 

 私は民法に対しては素人以前に無知という段階なので断定はできませんが、個人的には独禁法の拘束条件取引に該当するかどうかには疑問が残ります。ただし、上記のような見解もある、と述べておきます。

12月4日(水)

 年明けごろに、3回目のOFF会を開く予定にしております。日時の詳細などについては参加希望者の間で詰めていくつもりですので未定ですが、参加をご希望の方は、掲示板への書き込みまたはメールにてご連絡ください。折り返し、その時点での決定事項などを盛り込んでお返事いたします。まあこれまでの例を見るかぎり、そう大人数にはならないと思いますけれど。

 

 気が付けばもう年の瀬というわけですが、今年は例年になくゲームの購入・プレイともに数が少ないままに終わりそうです。現在プレイ中のものはいくつかありますが、そのうちかなりのものが棚上げ中という状態で、実際に「進行中」といえるものはごく限られていたりします(^^; こんな状態では、たとえ話題になっていても、そうおいそれと新作に手を出せるはずもなく(物理的なスペースでも苦しくなってきましたので)、年内発売のもので購入確定は『メモリーズオフ2nd』(KID)のみという状態です。ほかにもちょっと興味をひかれるものはあるのですが、その前にやらなくちゃいけないものがいっぱいあるわけで。『僕と、僕らの夏』『腐り姫』『D.U.O.』『女郎蜘蛛 〜真伝〜』『H(アッシュ)』『白詰草話』『ネジレ』……これらを年内に消化するのは事実上不可能ですが、いくばくかでも手を着けていきたいと思っています。



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