2003年3月の戯れ言


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3月20日(木)

 セキュリティ対策がある程度まで浸透したのか、以前に比べてウイルスメールの数はだいぶん減り、現在はメイン2つのアドレスで1日あたり10通程度にまでなりました。これらのメールをテキスト形式で受信すると、JPEGファイルやHTMLファイルやらが添付されてきます。JPEG画像はちっちゃいやつばっかりですが、HTMLファイルはけっこう大きいのが多く、テキストエディタでわざわざ開いて眺めることもあります。なかなかおもしろいページもあるのですが、なかには独立行政法人航空宇宙技術研究所のページなんてものがあったりして「発信者はどういうページを見ているんだろう…」などと思っています。

※ウイルスメールの中身を確認する際には、対処法を確実に身に付けたうえで自己責任でお願いします。ウイルスメールに感染しても、私は責任を負いかねます。

 

 先日書いた『ふしぎ電車』のデモですが、冒頭がチンドン屋の定番曲(曲名は知りません)というのにまず驚きました。それ以降は、おおむね各登場人物の顔見せから始まるのですが、それぞれの照れた表情がなかなか微妙で、何といえばいいのか、特に「少女車掌」の声が微妙にツボにはまりました(^^; こういうのは私だけかな?

 あと『エンジェルラビィ☆』(工画堂スタジオ)に突っ込むんでしょうという声をいただきましたが、いきませんので念のため(^^; 本編だけで十分ですがな。

 

 「写真館」というページ(※)を暫定的に作ってみました。そうはいっても、この「X-GAME STATION」と写真との接点など特にないので、第2回以降が続くかどうかわかりませんが…。

※2005年10月10日注:サーバ容量縮減により削除しました。今後更新することはありません。

3月18日(火)

 この週末は、久々に家をあけて旅に出て参りました。その直前になって、魔が差したように某デジタル一眼レフカメラなんぞを買ってしまい、おかげで完全な金穴状態(^^;;; 下で書いた『ふしぎ電車』(デモがデジアニメ・コーポレーションのサイトで公開されています)には特攻予定ですが、通帳の残高と要相談ということになってしまいました。まあ、ゲームのプレイに確保できる時間がどれくらいあるか、というのももちろんなのですが。

 ところで、なんとなくWebを徘徊していると、なんとemu『空を舞う翼』がDCに移植されるそうで。マジですか? 話が非常にわかりにくく、少なくともポイントを示してストーリーを把握・消化させるという点ではお世辞にも洗練されているとはいいがたいこの作品が、果たしてコンシューマ市場で受け入れられるのかどうか。『雨に歌う譚詩曲』のほうならまだわかるのですが、キャラ設定がデリケートなので使えなかったのかも。ところで、「CG紹介」中のCGのクレジットがみんな「EMU」のままなのはみっともないなぁ(^^;

3月9日(日)

 2003年発売ゲームは1本も買っていないという状況が、とうとう3月第2週まで続いてしまいました。ちまちまといろんなゲームのプレイは継続しているのですが、ここまで長期間新作に手を出さなかったのは、この趣味に手を出して初めてのことのような気がします。

 現在、ちょっと気にかかっているのが『ふしぎ電車』(デジアニメ・コーポレーション)。路面電車という舞台はともかく、「無限ループアドヴェンチュア」という設定が吉と出るか凶と出るか。部屋の片づけが遅々として進まない現状をみれば、即買いできる状態ではないのも確かなのですが、果たしてどんなものになるか。こういう設定での“車掌”がどんな役割を担うのか、それもまた興味がわきますし。

 

 私の別の方面の趣味をご存じの方ならピンとくるかと思いますが、先日、ある紀行作家が亡くなったことを受け、かなりのショックを受けました。自宅に戻ると酒を飲みながらその人の著作を引き出し、気が付くと涙が頬をつたうという夜を繰り返したものです。その著作について詳細に説明するのは、このサイトでは場違いなことこのうえないので省略しますが、自分の趣味をベースに綴った随筆が高い評価を受けた、とだけいっておきます。

 私がその作家に大きな感銘を受けたのは、趣味に対する姿勢の美しさのためでした。肩肘を張ることなく、自分のやりたいことを頑固に貫きながら、一方でどこか自分を冷静に観察できるような謙虚さと慎ましさ。そういったものを備えた“趣味”というのは、客観的にみればその行為が無駄であり無益なものであっても(「有害」となると尺度が異なってきますが、そういう意味は含みません)、その人物にとっての快楽の追求として立派なものといえます。

 そしてまた、そういう“楽しみ”を知ることのできる人こそが、ほんとうに“豊かさ”を味わえるものだといえましょう。

 自分の行動が無駄であり無益であることなど百も承知のうえで、それでも、自分が趣味を“楽しんでいる”と、真顔で自分に対してこたえられるような姿勢をもちたいと思います。その趣味の対象が世間的に歓迎され得ないものであろうとなかろうと。

3月3日(月)

 中途半端にプレイしてコンプリートしていないゲームの数を調べてみたところ、頭が痛くなるような数であることが判明したので、これらを丹念に消化しなくてはならないと決めたのが数ヶ月前。それ以降着々と消化が進んでいればいいのですが、銀行の不良債権よろしく、なかなか減りません。別に、算定基準によって増加したりすることはありませんけれど(^^;

 しかも、古いゲームの中には、現在メインで使っているWindowsXPでは動作せず、別に用意してあるWindows98環境でないと動かないものがかなりあります。このため、最近はWindows98が活躍することがずいぶん多くなってきたのですが、私が使っているUSB2.0デバイスの大半はWindows98初期バージョン非対応なので、例えばWindows98を起動しているとCD-Rを焼けないといった現象が起きています。このため「あれをやろう」と思い立つと、そのたびにシャットダウンして別OSを起動…。面倒なかぎり。VMWareなどで仮想OS環境を構築するという方法もアリですが、そのためだけに高い投資をするのもバカバカしいものです。

 さらに、「Windows98を立ち上げっぱなし」→「ネットに接続しない時間が増える」(ウイルスチェッカーなどはWindowsXPのみに入れているため)という現象も加わり、ゲームをやり始めるとそれしかやらないという状態になりつつあります。これでいいんだろうか(^^;;;

 

 Windows98のほうには、WindowsXPでは動作しない、あるいはまともにプレイできないゲームがいくつかインストールされていますが、そのなかの1つである『Rumble』(ペンギンワークス)を少しだけリプレイしました。いやあ、久々に大笑い。元ネタを知らないとわからないと思われるパロディの量もさることながら、叙述のベースとなる視点が微妙に登場人物たちと距離をなしている結果、そこで動いている人物たちを、プレイヤーが主体的に取り込んでいくという楽しみを味わうことができる点が大きいでしょう。

 確か、落語家の桂米朝師匠の説明だったか、落語と漫才との最大の相違点を、三人称で語られるストーリーであることに帰着させ、これを突き詰めれば、演者(=語り手)は無に帰すところにある、という話を耳にしたことがあります。『Rumble』のような叙述のおもしろさはまさに「漫才ではなく落語の手法」を取っているために起こるものであり、プレイヤーの解釈いかんで変わってくる、いわば「プレイヤーを使わせる」タイプのものなのではないか。そう考えます。そしてまた、物語のなかの登場人物をいかに“いきいきとした存在”にできるかが、このタイプの物語のキモとなるといえます。

 しかし、いろいろなゲームの感想で「プレイヤー置いてけぼり」とか「キャラの暴走」といった表現をしばしば見受けることがありますが、それらは得てしてこういった“いきいきとした”さまがキャラクターに欠如している場合のように思います。物語を作っていく中で、登場人物はそれらを構成する要素ではなく、それらを作っていく存在であることを示している作品が、どうにも減っているような気がします。プレイヤーが同じであっても、プレイしたときの体調や心理状態によって違ってくる(=リプレイすると、新しいものが見えてくる)という経験ができるゲームを期待しているのですが…。



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