2003年8月の戯れ言


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過去の「戯れ言」

8月28日(木)

 18日の本欄で書いた『うたう♪タンブリング・ダイス』(emu)のデモと体験版がアップロードされていたので、さっそくダウンロードしてプレイしてみましたが、感想はというと、微妙、の一言に尽きます。

 体験版についてですが、シミュレーションパートの組み合わせそのものは悪くはないかもしれない(パラメータの変動がハッキリわかりやすい)一方で、発生させる個別のイベントがさっぱり。会話の中で使われているフレーズが場の雰囲気に合っておらず、単純に「このキャラクターはこういう」と、y=f(x)的にせりふが決められているように見えます。これは、背景となっているキャラクターの役割が不明確である(自己紹介の類もまったくなし)という点を差し引く必要はあるでしょうが、従来のような“ばかばかしいノリで、しかしそれゆえの独特の悲しさ・わびしさ”を感じさせる余地はほとんどなさそうです。もっとも、シナリオを担当している門司(もんがまえ・つかさ)氏は、いわば時系列から自由になった心象などを描出することにその才を発揮してきた観があるので(「夏草の線路」や「雨に歌う譚詩曲」といった主題歌の歌詞を見ると、散文詩を書くのにすぐれているのではという気もします)、いわばさいころを転がしてすごろくを進めるような形で流れる“物語”はやや苦手なのかな、と。

 デモについても、各キャラクターの“動き”(単なる肉体的な動きだけでなく、相互の関連性の移行なども含めて)がほとんど感じられず、絵が流れていくだけに見えます。前々作の某キャラらしき姿が見えたのはご愛嬌ですが。

 現在、emuは数少ないデフォ買いメーカーになっているのですが、どうにも不安が先に立ちます。果たしてどうなることやら。

8月23日(日)

 おかげさまで、「X-GAME STATION」も4周年を迎えました。以前どこだったか“趣味やネタに立脚する個人サイトの寿命は3年強”という意見を拝見したのですが、なんとかそれを乗り越えられたようです。もっとも、この2年くらいは更新頻度がめっきり低下し、しかも攻略方面については更新停止を宣言する羽目になってしまいましたから、私もあまり偉そうなことはいえませんが、現在もネタとなるゲームには事欠きませんし(新作を即日購入してさっさとプレイすることはめっきり減ってしまいましたが)、サイトの更新に今後も意を注いでいくつもりです。今後ともよろしくお願いします。また、お気づきの点やご意見などがあれば、ご遠慮なく、掲示板またはメールにてご連絡いただければ幸いです。

 

 先日のOFF会のレポートについて、相互リンク先の管理人でもある藤八さんから、詳細なOFFレポをアップしていただきました(ありがとうございます)。その副題に「共同体」についてなんてフレーズがあったために、あんな本やらこんな本やらを再読する羽目になりました(自爆) おかげで貴重な週末の半分を消化してしまった云々はさておきまして(^^;、いろいろと当サイトの位置づけについて再考したりしておりました。もっとも、ゲームとはほとんど関係なく、表出メディアを作る「私」およびその結果についてですけれど。

人間をあたかも粒子のように実体的な個人として捉えること自体が、じつは人間存在に対する誤解にほからなかったのではないか。それは資本主義という生産様式に強いた特殊なイメージにほかならなかったのではないか。

 “個”礼賛に対する批判そのものは使い古されていますし、その制度性自体もあまりにも凡庸なものですが、個の存在のイデオロギー性は、ともすればアプリオリに認知されるものと錯覚しがちなものです。

 そして、例えば“Xゲームという客体を趣味の一環――合法的でありながら、これほどおおっぴらにすることが難しい趣味もないでしょう――として取り込んでいる人”についてみても、その“塀の上”を歩くがごとき微妙な存在にもかかわらず、相互の存在認知が、あたかも同族嫌悪か近親憎悪のごとき立ち居振る舞いをみせ、その結果、細分化された“拠客体(←Kenの造語。自分が主体的に化客可能と判断して没入できると考えられる、仮想的な客体)”が孤立して浮揚しているのが、現在のWeb空間(ゲームに限らず)のように思えます。体制から疎外されつつ、徹底的に“制度”化に邁進することで存在を自己認知するという姿勢は、単に“格好悪い”で片づけられるものではありません。それは、マクロ的には制度を希求する集団的生物たる人間の本能、ミクロ的には無限の差異化による自己同一性の確保が背景にある以上、不可避なものともいえるのでしょうか。

 また、

他人を強制する権力に転化しないような神秘主義などありえない。なぜなら、それは「実在」(真理)を握っているからであり、万人がそれに従わなくてはならないからである。また、「真理」の実現をさまたげている者は排除されなければならない。(Ken注:この文章は、普遍的なるものも共同体の内部においてのみ成立し、それを支えるのは近代合理主義などの諸制度である、という文脈で書かれています)

 いかようにも解釈可能なフレーズですし、またこういった観念からペシミズムへと走ってしまえば回答不能の陥穽にとらわれるのみで何も生まないことはまちがいないのですが、しかし“かくあるべし”といった、いわば望ましい概念(というものを措定できると考えること自体、あまりにも制度的なものとはいえるのでしょうが)を“当然に存在――正当化できるか否かは別として――するものとして”持ち出すことの醜悪さ、浅薄さは意識しておくべきでしょう。特に、モノを語る立場の人間として、その言説――あまりにも制度的な言説――が、基本的にはイデオロギーに依拠したイメージを単に具現化したものに過ぎないことを意識しておく必要があると感じます。より明快にいえば、私自身の政治的・思想的スタンスとは別に、自分が“主体的”になにがしかのものを紡ぎ出す時点で、その言葉は近代個人主義に基づく“相互了解可能な共同体”内部に限定されたものになる、ともいえましょう。

 もちろん、言説の制度性という議論そのものが“神話的”なものである、といった議論も成り立ちうるように思えますが、固有名を帯びるという観念(錯覚)をベースとした発言を、いわばこれしかないといった諦感を帯びた姿勢をもって重ねている自分がここに“居る”ことを認識している(「コギト」以前の段階)以上、少なくとも目に見える言説が“共同体”の枠の外へと“主体的に”出て行くのは非常に難しいのではないか、などと思っております。

 結局、“語る”という行為は、共同体に対する永遠の闘争(逃走?)にほかならないのかもしれません。ただそれでも、個−群という区分が、共同体を措定/固定するものである、ということは常に意識していきたい、と考えております。

8月18日(月)

 以前書いた『うたう♪タンブリング・ダイス』(emu)の発売日は、9月12日へと順当に延期されました。この結果、今月の獲物は結局『待宵草』1本だけになりそうです。この『うたう…』の主題歌がemuのサイトにアップされていたので、ダウンロードして聴いてみましたが、メロディそのものが印象に残りにくいうえ、ゲームのシーンとどのように適合させるのか、非常に不安です。『Railway』の「夏草の線路」、『雨に歌う譚詩曲』の同名曲などは、別バージョンがゲーム中で非常に有効に使われ、単なる「いい主題歌」の域に留まらない使われ方をしていたのですが、大きな期待は無理そうです。また歌詞も、抽象的であるだけでなく「歌に使うためのフレーズ」に留まっており、ストーリーへと牽引していく力強さがまるで感じられません(これは、これまでとは異なり、シナリオライター氏が作詞していないことが最大の要因でしょう)。

 

 サイトを長いこと運営していくコツって何ですか、というメールをいただきました。一概に答えられるものでないことは明らかですが、あくまでも私個人の経験で見ると、自分を他者との関係性において相対化しつつ(これはずいぶん前から書いているとおりです)、その関係を貴重なものとしつつ絶対化することを断じて避ける、ということになると思います。

 Webで文章なり何なりを公開する以上、何らかの形で納得できる(自己満足できる)ものを作っていこうとするわけですが、ここで他者の評価を一義的に据えてしまうと、結局自尊心を満足させるために対外依存に陥ることになり、何のための“個人”サイトなんだかわかりません。では“楽しければいい”かというと、そうでもありません。楽しいという感覚をその個人が知覚しているようであっても、実際には、自己表明によって一義的に得られる快楽を得ているでもなし、はたまた自己表明から派生した果実を享受しているでもなし、擬似的に作られたコミュニティの中での存在確認が第一となり、結果として満目蕭条たる空間で夜郎自大ぶりをアピールしているというケースさえ見受けられるのが実情です。外部の視点を拒絶するか、外部に迎合するか、の両極に走ってしまっては、自分の置き場などありません。

 結局、他者との関係を“貴重な機会”として尊重しつつ、その相手との関係をある程度プラグマティックにとらえ、“自分”を見るための座標軸として“使う”ことが、“個人”サイトの存在意義を高めていくのではないか、と考えます。ネット初心者が管鮑の交わりなどを無邪気に期待して痛い目にあうと、このような「器用な割り切り」は難しいかもしれませんが、他者の視点以前に「自分が他者をどう見るか」の意識がなければ、自己相対化もなにもありません。

 もちろん、こういった考え方が一般的なものであるとは思いませんし、そもそも自分のことを棚に上げてあれこれ言える義理ではないのですが、それなりの説得力はあるでしょう。

8月5日(火)

 8月22日発売予定となっている、ブロッコリーの『ギャラクシーエンジェル Moonlit Lovers』の体験版が、Impress GAME Watchで公開されていたので、さっそくダウンロードしてプレイしてみました。戦闘シーンでの基本的な操作は前作を踏襲し、いくつかのボタン類やデータ表示がより洗練されているという印象ですね。前作は何十回プレイしたかわからないのですが、今回はハードウェアの要求水準がさらに厳しくなっていて、私のRADEON7500では「Ultra」モードでは動作しないとのこと。すでに今年に入ってからグラフィックカードの力不足を感じるゲームがけっこう出てきているし、そろそろ潮時かもしれません。

 しかしシナリオ面では、前作の各ヒロイン別エンディングの続き、ということでまちがいないようです。そうすると、ミルフィーユエンドの続きの戦闘モノというのがどうやって成立できるのか、私にはさっぱりわかりません。ほかのルートであれば何らかの説明はできるのですが、ことミルフィーエンドに限った場合、最前線に立った時点で、前作の物語を否定することになるとしか思えません。前作のヒロイン別シナリオでいちばん完成度が高かっただけに、安易な扱いをしてほしくないんですけれど。やっぱり様子見ということになりそうで、「1か月3本突撃」とはなりそうにありません。

8月4日(月)

 7月も結局何も買わない月のままに終わってしまいましたが、月開け早々に『待宵草』(パティスリー)を買ってきました。体験版をプレイして、特にこれといったものを感じたわけではないながらも、どことなく雰囲気のよさにひかれてそのまま買ってしまったしだいです。このうちサブ系ヒロイン4人はさっさとクリアできたのですが、ボスキャラである紅巴(くれは)が非常に難しく、ほかのキャラとの絡みなどを考えながらノートに選択肢を書き出して調べるという作業が必要になりました。無茶とはいわないまでも、ほかのキャラが非常に簡単であるため、かなり面食らいました。

 しかし問題点は、何度もリプレイしてフラグ立てのあたりをつける必要があるのに、リプレイが非常にめんどうであることです。ユーザーインタフェースは悪くはない(ただし動作がいちいち重い)ものの、途中に避けられないミニゲームが入っており、プレイするたびにこれを繰り返させられるのには参りました。選択肢の選別が非常にシビアなゲームである以上、いわば物理的な堰を設けるような異質存在を挿入するのは、意地悪極まりないものであり、どうにかしてほしいものです。具体的には、 イベント・夢とも基本的に夕姫ルートで進めながら、紅巴関連のイベントを発生させる。ただし、10日のイベントのみは紅巴の誘いを蹴り、夕姫の部屋で「励ました?」を選び、紅巴が疲れているときは休ませる、 というプロセスで紅巴ルートに入れますが、これを見つけるのに十数回リプレイ(&ミニゲームプレイ)を余儀なくされました。まったく疲れた…。

 クリアするだけで疲れてしまいましたので、まとまったレビューはもうしばらくお待ちください(^^;

 このほか、今月末には『うたう♪タンブリング・ダイス』(emu)も発売が予定されており、こちらには無条件で突撃するつもりなので、1か月に複数の新作に手を出すという、もう何か月もすることのなかった行動に出るかもしれません。

 実際にはゲーム以外にやらなくてはいけないことがプライベートでいろいろあるので、家に帰ればPC立ち上げてゲームやって書いて、とはいかないのが現状ですけれど。



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