2004年7月の戯れ言


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過去の「戯れ言」

7月31日(土)

 先日の本欄で“袖振り合うも多生の縁”という表現を取り上げたところ「どういう表現ならよいのか、よくわからない」というメールをいただきました。

 この表現そのものが誤用というわけでは決してありません(これが「多少の縁」なんて書いてあったら客観的に間違いと断定できますが)。しかし“袖振り合う”という表現は、男女の縁と非常に近いところにある、たいへんにデリケートなものです。それも、相手を思う気持ちが、隠そうにも隠しきれないように、燃えさかっている雰囲気を形容する際に使われるというのが、古典的な用法として多く見られます。しかし、こういう表現が、初対面ではなく偶然に顔を合わせていた2人の生徒どうしをつなげるものとして、国語の教師の口から出てくるという「場違いな表現」である点に、違和感を抱いたしだいです。確かに、相手の女の子とねんごろになることが第一義の目標であるわけですが、まだ最初の段階で「テメェにそんなこと決められる筋合いはない!」というツッコミを入れたくなってしまいます。

 

 最近、慣用句やことわざなどの意味の正誤がクイズ形式などで問われることが多く、新聞紙上などでも“「×××」の正しい意味を答えられた人は×%だった”という記事をしばしば見かけます。一種の「日本語ブーム」とでも称すべき現象なのでしょう。しかし、コトバの用法の正誤を論じれば、「知識としての語彙」は増えるのでしょうが、あくまでもそれだけです。コトバは使って磨いていくものであり、日々目にし耳にし口にする無数のコトバの使い方そのものに対するセンスを養うことも忘れてはいけないのですが、「日本語として妥当」とか「美しい日本語」といった観点でマスメディアが取り上げることはほとんどないようです。

 慣用句の正しい意味を覚えるより、どのような表現が適切なものかを意識するほうが、日本語の能力をより高め、その人のことばをより深いものにしていくはずです。これはなにもゲームシナリオに限定した話ではありませんが、ゲームのテキストを論じる際に、往々にして誤字脱字の量や、表現方法の客観的な誤りのみに注目が集まりがちなのが現状です。しかし、それ以上に、状況を説明する表現としてテキストが妥当であるか否かに、より関心が向けられてしかるべきでしょう。

 もっとも、コトバは時代に応じて変わるのが常であるとはいえ、年齢が一定以下になると語彙が大幅に減少する傾向があるように感じてしまうのは、私が歳を取った証拠なのでしょうか。

 

 割とネガティブな取り上げかたをした『まじぷり −Wonder Cradle−』ですが、有里ルートの後半はそれなりに楽しめました。もっとも、主人公の境遇がずいぶんと中途半端であるうえ、有里をめぐる周囲のキャラクターがほとんど登場しないため、彼方の世界において主人公が感じたであろう違和感がほとんど伝わってきません。単に主人公が鈍いだけ、といってしまえばそれまでですが、異人款待の背景にあるものを、当人の視点、そして内部の者の視点の双方から的確に説明しなければ、結果としての悲劇であれハッピーエンドであれ、どうしたって薄っぺらいものにならざるを得ません。大枠のストーリーは悪くないのですが、練り込みがまだまだか、という印象です。

7月26日(月)

 ゲームを再開しようと、積んであった『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine)に手を付けたのですが、主人公に語らせているセリフやモノローグが、どうにもくどいうえに、きれいさとはほど遠いテキストが延々と続くため、うんざりしています。なんとかがんばって20分ほどプレイはしたものの、そこで綴られているテキストから、登場人物相互間の関係を暗示させるものがなかなかうかがえないうえに、進めていくこと自体がちっとも楽しくありません。複数の人から勧められたゲームであり、また諸般の事情によりRPGやアクションゲームには手を出したくないので、プレイを開始したのですが…。ピアノを多用したBGMは秀逸、グラフィックも高水準なのですが、あのトーンについていくのはかなり辛いので、このまま封印して「感想」欄ゆきになるかもしれません。

 

 これに疲れて手を付けたのが『まじぷり −Wonder Cradle−』(Purple)。主人公の周りに存在している登場人物(あまり「ヒロイン」という表現は使いたくありません)の行動や言動に主体性が感じられず、個別のイベントごとにピンポイントで“コセイなるもの”を提示していくような叙述なのですが、これもうんざりしながら進めました。最後に出てきた明日葉有里がかろうじて許容範囲だったので、なんとかエンディングまで持ちましたが、ほかのキャラを含めた舞台設定がもうわかってしまったので、ほかの個別エンドを見る気が起きるかどうか、ちょっと微妙です。

 もっとも、これもテキストを見て「………」となるところがけっこう多いのが困ったところ。のけぞったものその1として、主人公の足下に、自販機から出てきたままの、すなわち未開封の飲料水の缶が転がってきたときの記述。

このまま足を踏み込んだら、間違いなく俺はこの缶を踏み潰すだろう。

しかもこれは、炭酸飲料だ!

それも女の子の手から地面に落ちて、ほどよくシェイクされていると見た!!

女の子「わっ! ちょっと!」

さらに缶の飲み口は女の子の方を向いている!

(中略)

ガシュ!!!!

思いきり踏んだ。

ブシャァァーーー!!!!!!

女の子「いやぁぁぁーーーーーーっっ!!!!」

世界は瞬間、炭酸の嵐で真っ白になった……。

 缶が足下に転がってきたときに真っ先に注意するのは、それに足を取られてこけないかどうかでしょう。しかしそれ以前に、人間の力および体重で、缶の中身を噴出させることなど無理です。特殊な形状のスパイクを履いていたと考えても、飲み口から内容物を出させるためには横から圧力を加える必要があるわけで、単純に踏みつけただけでは人間の力では不可能です。物理法則を無視した世界を展開するのはかまわないのですが、ここではそういった世界であることの必然性も必要性もなく、当然のことながらいっさいのフォローもありません。超常的な現象を多用しているストーリーであるだけに、日常世界の描写からは、不可解さを極力排するべきだと思うのですが。

 さらに、テキストレベルでもすごいところがあります。主人公のクラスに、ヒロインである有里が転入してきた当日、教室で担任の国語教諭がのたもうたセリフがふるっています。すでに主人公(姫川)と有里が、上述のイベントで顔見知りだったことを受けているのですが…。

桜「じゃあ、袖振り合うも多生の縁ということで、明日菜の世話役は、姫川で決まりだな」

 おーおー、若いとやることがダイタンやねえ。出会ったその日のうちに、袖振り合う関係にしてしまうのですか、この先生は。昔からあかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る凡ならばかもかも為むを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかもというとおり、隠そうにも隠せないような激しい想いをあらわすのが“袖振る”ことですからねえ。すごいですねえ。しかもこのゲームはフルボイスで、ここはセリフ部分なんで、そのまんま読まれているわけですね。すごいですね。

 『CROSS†CHANNEL』のように、テキストがなかば生理的に合わないというのではないのですが、別の次元で疲れます。頭痛を催させる個所がこう多いと、どうにも。

 気楽に精神をリフレッシュさせられるゲーム、何かないかなあ。

7月25日(日)

 掲示板にも書きましたが、8月にOFF会を開催する予定です。具体的な日程などは特に決めておりませんが、8月に開催されるイベントの前後、人が集まりやすいときに顔合わせをしたいな、と考えております。場所は、東京都内(秋葉原周辺、あるいは新宿あたりでもよいか)です。“とりあえず”顔を出してみようかな、という方は、Kenまでメールをお送りください。連絡用掲示板などを用意しておりますので、折り返し、そのアドレスをご連絡します。

 さて、繁忙期のトンネルを脱し、自分の時間を自分で使える状態になりました。これまでは、仕事をしていない時間帯は食べているか寝ているかという状態で、疲労回復のためにとにかく寝ていたいというありさまだったのですが、ようやくまっとうな生活になった、というべきでしょうか。

 繁忙期が長期化すると、時間の感覚というものが麻痺してきます。はじめのうちは「時間が足りない」などと思いながら仕事をしていくものの、だんだんこの焦りそのものが自分の感覚として定着してしまい、ふと時計が視覚にはいると時間がたっていることに驚く、という状態になってしまいました。

 「現代人は仕事に追われっぱなしだ」といった論は何十年も前から繰り返されてきたことですし、時間に支配されないような生き方ができればいいな、とは今でも思います。しかし「時間がない」といった考えは、時間という観念がアタマの中にあってはじめて生まれるものです。やるべきことが山のようにあり、それをどんどん処理して行かなくてはいけない場合、時間など気にしている余裕がありませんでした。時間に縛られるのではなく、時間から見捨てられるような生活を送っていた、といえるのかもしれません。

 個人のWebサイトで「時間ねぇ」と書いたバナーがはってあるものを多く見ましたが、せめて、時間がないといった焦りを抱ける程度の環境を維持しておかないと、人間的な思考も行動もできなくなるのだろう、と思ったしだいです。

 

 上にて「思考」と書きましたが、このWebサイトを作り上げているのは、この思考の結果としての“表現”です。この表現は、しかし思考の自由な発露というわけにはいきません。原則として、表現自体が完全に個人の自由に任されるものであるという点については、議論の余地はないといえましょう(社会的な制約が存在することを前提とするのはもちろんですが)。しかし、例えば個人がWebサイトでなにがしかの“表現”をなすにおいては、ほかの人に対して理解してほしい、と大なり小なり思うものです。さらにいえば、Webというかぎりなくオープンなスペースをフィールドと措定した以上、そこにおいてはいかなる普遍的な価値も絶対的に承認されることは原理的にあり得ず、その帰結として、読者――他者からの承認に対する欲求から免れることは、ほぼ不可能でしょう。

 しかし、表現なき思考というものは、果たして何らかの形で実を結びうるものか、という問いに対しては、明確な根拠があるわけではないものの、「否」と応ずるのが妥当と思われます。他者が善き哉と評するもののみに縛られるといった極端な窮屈さ――そこには、マゾヒスティックな快楽さえ生ずる余地はありますまい――は論外にせよ、“観衆”は絶対に“観客”にあらず、といった程度の割り切りが必要なのかもしれません。

 もちろん、思考といい表現といったところで、それが自分を益することになる確率はきわめて低いでしょう。むしろ、そういったことから無縁でいることには耐えられない、そういうものであってこそ、思考あるいは表現はその輝きを増すものだと思います。これらの至高をアプリオリに前提する人の論に対し、えてして浅薄さを感じさせる傾向にあるのは、それらが(なかば生理的欲求として)思考なり表現なりを切望していないからではないか、と思わざるをえません。

 ともあれ、思うことを好きなタイミングでWeb上で書けるということは、このうえない幸福なのだろう、と思えます。願わくば、かかる環境が、最低でもこれ以上悪くならない程度に維持することを、社会が是認していくように望みます。

7月3日(土)

 更新ストップどころか掲示板のレスさえ完全にストップしてしまいました。何人かの方にはご心配をおかけしたようで、いろいろなメールをいただきました。ありがとうございます。

 現在、業務の繁忙期が長期化しており、目や手首の疲労が深刻化しているうえ、1日に5時間半以上の睡眠を確保するのが困難な状態がすでに2週間以上続いています。これは今月20日すぎごろまで継続するのが確実なので、サイト更新はほぼ不可能になります。もっとも、更新が止まっているからといって、気力が減退しているというわけではなく、物理的(時間的)あるいは肉体的に無理というだけなので、時間がたてば元に戻ると思います。

 時間に余裕ができれば、『シンフォニック=レイン』のリプレイもやりたいし、中途半端になっているゲームにも手をつけたいのですが、当面はそんな余裕はなさそうです。サイトの更新以前に、掲示板でのお返事もけっこう苦しそうです(広告はがしなどのため、定期的にチェックするようには心がけますが)。

 回避可能な負担を極力避けたいので、いましばらくの猶予をたまわれば幸いです。



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